小説 | ナノ


  キャンパスと絵の具


 もうすぐ屋敷の出口だ。
 早くここから逃げないと。そうじゃないともっと状況は悪化して行く。
 突きあたりの通路を曲がった所で、俺は足を止めた。

「どうして逃げるの、アリババ」
「……母さん」

 そう呼びながら俺の心では違うと叫んでいた。目の前の黒髪の女性。練玉艶。俺の母親。と、俺の記憶の中ではそうなっている。けれど、違う。そんなはずがない。

「母さんと呼んでくれるのね。嬉しいわ。さぁ、戻りましょう。あなたは病気なの。ちゃんと治療しないといけないわ」
「い、いやだ。違う。あんたが俺の母親なはずがない。あんたはバルバッドで俺を育てていないんだ」

 そうだ。それは間違いない。違う。だから、違うんだ。

「では、あなたをバルバッドで育てていたのはだぁれ?」

 ゆっくりと問われて、陸に打ち上げられた魚のように口がパクパクと音を立てず開いた。答えられない。思い出せない。俺をスラムで育ててくれたとても大切な人。その人の顔だけが急に空白になったように思い出せなくて、その人の名前も思い出せない。どんな人でどんな風に一緒に暮らせていたかが思い出せない。確かに暖かい記憶があるはずなのに。

「…………」
「ねぇ。思い出せないのでしょう? 病気なのだから、仕方がないわ。でも、心配しなくていいのよ。治療すれば治るのよ」

 差しのばされた手。この手を取れば楽になれるのかもしれない。そんな誘惑に駆られる。
 けれども、この手を取れば、暖かい記憶があった。ということも忘れさせられるだろう。俺がここに連れてこられて一週間――魔法によって弄られ続けているのは、間違いなく俺の記憶だ。

「アリババ王」

 後ろからかけられた声にぎくりと肩を跳ねさせた。振り返れば、漆黒の衣服に身を包んだ仮面の男が、大きな鎌を手にカツカツと音を立てて、近づいてきていた。

「イス、ナーン」

 しまった。こいつにも追いつかれた。
 じっとりと背中を汗が流れる。玉艶よりも俺にとってはこいつの方が厄介だった。玉艶に見つかったからと言って、足を止めて話なんかしている余裕なんかなかったのに。

「くそっ!」

 なりふり構わず走ろうとして、数歩で足が止まった。視線を下に動かせば、足に絡みついている紫色の蛇。
 そんなもの蹴飛ばせばどうとでもなりそうなものなのに、俺の体は急に言うことを聞かなくなった。力が抜けていってがっくりと地面に膝をつく。

「駄目じゃないか、アリババ王。玉艶様を困らせるようなことをして。君の、母親だろう」

 イスナーンの言葉が頭に響く度に、それが真実だと思えてしまう。
 こいつが俺を堕転させた存在。俺の中の黒いルフはほとんどイスナーンによるものだ。そのせいかはわからないが、俺はイスナーンに逆らえなかった。それがわかっているからこそ、イスナーンがいない時間を狙って逃げ出そうとしたのに。

「……ち、がう」
「違わないさ。君の記憶の中で、母親が誰なのか。言ってごらん」



「…………練、玉艶」



 俺の意志に反して、口は勝手に言葉を紡いだ。
 俺の言葉にイスナーンが上機嫌そうに口元を歪めた。きっと背を向けていてわからないけれど、後ろの玉艶も似たような顔をしているんだろう。

「そうだ。ちゃんとわかっているじゃないか。さぁ、部屋に戻ろう。今日も『治療』を続けようか」

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