みえないくさり1
俺達は街を転々と移動していた。俺の調子が良ければ、とっくに国境を越えてもおかしくないくらいの時間をかけてゆっくりと。幸いにも俺のことが指名手配なんぞされていないから何事もなく旅は順調に続いていた。
モルジアナは本当によくしてくれている。俺が、俺自身のことを情けなく感じるくらいに。
故郷はどうだった? 仲間には会えたのか?
そう尋ねればモルジアナは、赤茶色の広大な大地で起きた出来事をぽつりぽつりと話してくれた。
その横顔は喜びと誇りに満ちていて、とても綺麗で美しく輝いて見えた。モルジアナはいつからこんなに綺麗に見えるようになったんだろう。我知らず手を伸ばして、頬に触れた時は不味かった。驚いたようにモルジアナが俺を見上げていて、一拍経ってから俺も手を伸ばしていたことに気付いて――反射的に手を引っ込めた。その時に、少し残念そうに眉尻を落としたモルジアナに、慌てて口にした弁明はますますモルジアナを不機嫌にさせただけだった。
モルジアナに惹かれつつあるのを俺は自覚し始めていた。同時に、モルジアナに対して後ろめたい気持ちも、感じていた。
モルジアナには情けない姿ばかり――それも、俺がいいようにされていた事実をどうしてかモルジアナは知ってしまっている。見たのか。あの情けない姿を、醜く善がっている姿を。それともファナリスは嗅覚などが鋭敏だから勘づいたのだろうか。
モルジアナがあの場所について何を知っているのか、それを確認することが俺にはできなかった。聞こうと思ったことはある。でも、その度に暗い部屋に閉じ込められていた鎖の記憶を思い出しそうになって、聞けなかった。遠い記憶として、あの地獄のような数ヶ月間を俺は必死に忘れようとしていた。でも、事実は確実に俺を蝕んでいて――時折考える。こんな穢れた俺がモルジアナの傍にいていいのかと。俺と一緒にいるよりも、他の場所に行った方が、モルジアナは幸せになれるんじゃないかって、悩むことが多くなっていった。
シンドリアに行くにしてもレームに戻るにしても、俺達は煌帝国の国境を越えてアクティア王国に一度へ行かなければならなかった。そこに唯一通じている関所は俺達が街に着いた時にはもう閉まっていて、翌朝の開門を待つことになった。
「まだ昼だっ手のに受け付けはもう終わりだってさ」
関所には未だ人が沢山並んでいる。けれども、そこの人達は午前中に受け付けをすませた人達らしい。
「人、多いですね」
「出入りがずっと増え気味なんだってよ。おかげで手が回らないらしい」
煌帝国への入国は人手が足りているが、アクティア王国側への入国が滞っているらしい。勢力圏拡大中の煌からのスパイが入りこまないかと気を這っているからだとか。
「時間がかかりそうですね」
「とにかく宿取ってこようぜ」
「そうですね」
昼下がりだ。ちょうど腹も減っていた。宿場町で久しぶりに新鮮な食事にありつけそうだった。
本当にあと少し。あの関所を越えれば煌から出られる。だからか、気が緩んでいたのかもしれない。これまでの旅時で当初警戒していたのが馬鹿らしくなるくらい何も起きなかったから、俺達の周囲に対する警戒心はそれほど強くなかった。一人で出歩くのも当初に比べれば、珍しくなくなっていた。
市場で一人で歩いていて、背中に人がぶつかってきた時も人通りが多いくらいにしか俺は感じなかった。
「みぃ〜つけた」
だから。だから、その低い声と共に利き腕掴まれた時すら、俺は一瞬反応できなかった。振り返って目に飛び込んできた麻の薄茶のフード。その奥で揺れる黒髪にドクリと心臓が音を立てる。
「随分来るの遅かったなぁ……? お前が来るの、ずっと待っていたんだぜ?」
「……っ!? ジュ……ダ、ル……?」
反射的に掴んでいる手を振り払おうとした腕はがっちり掴まれているのか動かなかった。
「は、はなせ……っ」
ただ呼吸が荒くなっていく。身体が小刻みに震えていくのを止められなかった。フードの奥で何がそんなに楽しいのかジュダルが上機嫌に口元を歪めているのが見える。
「良かったぁ。俺のこと、忘れてねーんだなぁ」
肩にのしかかる腕の重み。掴んでいる俺の利き腕を後ろ手にひねりながら、ジュダルは俺の方に空いた腕を回して耳元に口を寄せた。
「なぁ、外で犯されるのと、部屋で犯させるの。どっちがいい?」
「……っ!?」
小さな低い声で。それでも耳元で呟かれた言葉は市場の雑踏にかき消されることなく聞こえてきた。心臓がさっきからせわしなく音を立てている。嫌だ、嫌だいやだっ!!
「ど……どっちも……いや、だ」
「そう言うと思ったぜ。良かった。俺、お前のことちゃんと理解できてたんだな……」
嬉しそうにはずむ声に俺は眉をよせた。おかしい。拒めばジュダルは怒るタイプだったはずだ。今だって、俺は何かしらの乱暴をされると覚悟していた。それに乗じて逃れようともしていたけれど。それなのにジュダルは上機嫌に笑うだけだった。
「――――」
「え?」
耳元で素早く呟かれたのは何かの呪文か。聞き取ることができなかった。
「……あ……れ?」
ぐらり、と視界が唐突に歪んだ。同時にどうしようもないくらいの睡魔が襲ってきた。
「選ばせようと思ったけど、そういや今回はちゃんと準備してたの忘れてたぜ。思い出させてくれてありがとうな、アリババ」
――嘘だろ、こんな……。ここまできて。
力が抜けて崩れ落ちそうになるのを、いつの間にか腕を抱え直していたジュダルに支えられる。その時に、フードの奥で深紅の瞳がギラギラと輝いているように見えた。それを最後に俺の視界はゆっくりと閉じられていった。
用意していた黒のチョーカーを飾り紐を取り去った首につける。鍵を回せばカチリと音がして、鉄でつくられた黒いチョーカーはアリババの首に収まった。その中央に石留めされたルビーは鈍く赤い光を内包していた。
薄い絹の糸で縫われたネグリジェもアリババの為に用意したものだった。眠らせた相手に服を着せるのも慣れたもので、俺は戸惑うことなくアリババに服を着せた。その際に、薄い布で覆われた裸体に手を這わせたくなる衝動をぐっとこらえる。
――まだだ。まだ、足りない。
あらかじめベッドの足に繋いでおいた鎖の先の手錠を、アリババの両手にはめた。あの部屋に繋がれた時を思い返せるように。足の錠は用意するのが面倒だから省いた。元々邪魔にも感じていたし、この際細かいことには目をつぶった。
――早く、来ねえかなぁ。
そうすれば、用意していた全てがパズルのピースをはめたように機能する。その時を待ちつつ、ジュダルは意識のないアリババを前に少し前のことを思い出していた。
例の部屋を訪れてアリババがいなくなったことを知ったのは、ちょうどアリババがそこからいなくなってから一週間くらい経った頃だった。白龍はただ簡潔にある日アリババが突然いなくなったとだけ言っていた。白龍は、その後の足取りを辿ることもしていなかった。
実際に部屋に行けば、その時の様子が残されたままだった。床に入ったヒビの跡、乱れたままのシーツ、砕かれた鎖。部屋の様子から俺が思い浮かべたのはチビのマギじゃなくて、連れのファナリスの方だった。魔導士ならもっとスムーズな壊し方をするはずだ。
「……もう、やめにしませんか」
「あ? なんでだよ」
気付けば部屋の入口に白龍が立っていた。
「こんなこと、間違っている」
「はっ。そんなの今更だろ? 散々あいつを抱いたお前が言うのか?」
「罪だと思っているから、俺は悔いているんです」
「……お前はここでやめればいいだけのことだろ。俺は関係ない」
アリババがいないならこんなところに長居は無用だった。空飛ぶ絨毯を広げて、その上に飛び乗る。
「神官殿っ!!」
「あいつは俺のだ。お前はそうして立ち止まっとけばいい。俺は、最初から狂ってるってことの自覚はあるからな」
振り返らず俺は空へ飛んでいった。それから色々と手配した。アリババを探すのもそうだけれど、どうしたら二度と逃げ出さないようになるかってことも考えた。足取りは意外とすぐにつかめたけれど、すぐに接触しなかったのも万全の準備をしたかったからだ。どうせ再会するなら感動的な方がいいだろ? 趣向を凝らして、罠を張って――。
そして、ようやくアリババを手にすることができた。
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