以下の文章が示す意味を答えなさい 1
忙しなげに行き交う人々。スーツ姿もあればいかにも今からリゾート行きますって感じのラフな服装のカップル、カートを引いた小綺麗な家族連れもいたりなんかして。この場全体が猥雑になりそうなのに決してそうはならない場所、ここは空港。私は足早に到着ロビーへ、それも国際線へと向かっていた。
「八神さん、待ってー」
後ろから私を追い掛けてくる足音がする。けれどもそれが急ぎ足になる気配は一向にない。程なく、
「あーっ、こぼれそ……熱っ」なんて、のんびりした呟きが聞こえてきた。
「不破主任!急がないと飛行機着いちゃいますよ。ビジネスクラスは先に出てくるからお迎えの時間に間に合いません!」
「そんなに焦らなくても大丈夫だよ。あの人サンプル沢山持ってるから税関で引っ掛かるだろうし、機内預けの荷物もなかなか出てこないだろうから。それに…」
不破主任は目を細めた。今は短いけれど伸びたらボリュームの出そうなコシのある髪が寝癖なのか所々跳ねている。
「中在家係長が先に行ってるからね。僕らは午前中に着けばいいよ」
だからってさ。「ついでだしお茶飲んでいかない」って言うのはいいけど、カウンター前で何を注文するか五分以上迷わないで下さい。しかも細かくカスタマイズするのかと思ったら、「一番上に書いてあるの下さい」ってごく普通のラテだったし。
「ごめんね、八神さん。迷って決められないなんて本当悪い癖だよね」
ほんの少し肩を落とした不破主任が小首を傾げた。その無邪気で温厚そうな笑顔を返されてしまうと、流石の私も喉元まで出掛かっていた文句がすーっとどこかへ消えてしまう。不破主任といえばあの小憎らしい鉢屋さんと吃驚するほどそっくりで、文句の一つや二つは言いたくなりそうなもんなのに。
そう、言い忘れてたけど現在私と共に到着ロビーへ向かうこの不破主任は、人事部の鉢屋さんと瓜二つなことで有名だった。最初は双子かと思ったけど苗字が違うからてっきり何らかの事情があるのだろうと思っていたら、ただの従兄弟と聞いてがっかりしたっけ。
だけどどうして無意識の内に応対の差が出てしまうのだろう。微笑みを浮かべる不破主任を眺めていたら『人徳』という一語が脳裏に浮かび右から左へテロップのように流れてゆく。この不破主任の形容しがたい緩さというか、のほほんとした春の日溜まりのような温もりに包まれていると、あれほど急(せ)いていた物事が何もかもどうでもよくなってくるから不思議だった。
もっともほんの僅かな間でも一緒にいれば鉢屋さんとの違いを痛感させられるから無理はない。私が何かしでかせば例え嫌味を言わなくとも鉢屋さんは面倒臭そうに半ば目蓋を閉じつつ私を一瞥して、鼻から煙草の煙を吐き出していることだろう。第一鉢屋さんは五分と迷わない。
とはいえ不破主任が下らないことを悩んでいる姿はかなり可愛らしかったから、何となくうやむやの内に許してしまいそうで。そんなことを考えながら私はスクリーンに映し出された英数字を目で追った。流石にJALと書かれたものが多い。
「不破主任。お客さんはどの……何時の飛行機ですか?」
「お昼の便だって」
「…………」
──お昼って、あのう……一杯マークが並んでますよね。
一瞬困惑した私に丸い目を瞬かせた不破主任はスーツの内ポケットへと手を伸ばした。
「ごめんごめん。八神さん、ちょっと待ってね。印刷した紙貰ってるから」
だけど主任が方々にあるスーツのポケットを探ってもお目当ての紙はいっこうに姿を表さない。まさかね、なんて嫌な予感がした矢先だった。
「確か出掛け手に持ってて……あー、机の上に置いてきちゃったか。えっとね。確かヨーロッパの飛行機だったんだけど」
欧州の航空会社ったって一杯あるし。軽く青ざめている私に向かってばつが悪そうに主任が眉を下げた。一瞬その顔にときめかなかったといえば嘘になる、なるけれど。
不破主任を待つ間、二ノ坪くんから当の来客はポルトガルの人だと聞いていた。直行便がないからどうするのかと思ってたんだよね。とするとポルトガルに近くて便数が多い空港は限られる。
「あの…たぶんロンドンかパリ経由なんですよね」
「うん。日本まで来てないからね。あっ!」
──何っ!
「ロンドン経由を取消したんだった!」
不破主任は斜め上を見上げ何かを思い出すような仕草をすると小声で呟いた。
「カステーラさんはジャカルタとバンコク、あと周辺の国々に寄って最後に日本へ来るから…シンガポール航空に変えたんだっけ」
「だったらターミナルが違いますよっ」
空港は航空会社毎に利用するターミナルが決まっている。私達が今居るここは第二ターミナル。お客さんの飛行機が到着するのは第一ターミナル。しかもこの二つは互いがかなり離れていて到底歩ける距離ではなかった。
ざざっと血の気が引き緊張の余り周囲の音が聞こえなくなる。方や不破主任はのんびりとしたもので、「じゃあ戻ろっかー」と呑気な声で返してきた。本当にこの人って大物なのか適当なのか。
取りあえず今は来客の微妙に親しみのある名前にツッコミを入れてる暇はない。不破主任の手を引っ掴んだ私は連絡バスの乗場へと走り出した。私につられて仕方なく走らされている主任が後ろから声を掛けてくる。
「八神さん、走らなくても大丈夫だって。間に合うよ」
「全然大丈夫じゃないですよっ」
「さっき…能勢君から連絡が来てね。それに時間と到着便が書いてあって…」
──能勢くんナイスフォロー!
「その飛行機、かなり遅れてるって表示が出てるから」
──それを早く言ってくださいっ!
驚いて振り向いた私の視界に不破主任の丸い目と角張ったテジタル表示が飛び込んできた。到着便だけがずらりと表示された壁のモニターに、一便だけ『delay/遅延』の二語が交互に点滅している。
能勢くんが机の上の忘れ物を見つけ慌てて連絡を入れたのだろう。それにしても何時の間にメールを確認したのやら。不破主任ってばあんなにおっとりして見えたのに。その忍者並みの素早さに内心かなり驚愕しつつニコニコしながら後ろに立っている主任をまじまじと見つめ返した。
「いや、ずいぶん何回も震えてるなあと思ったんだけど…。まっ、後でいいかと思っててね」
穏やかな声音が響いた。
「僕が早く見れば良かったんだよね」
そう言うと少し困ったように眉を下げる。ずっと握り締めていたせいか少し汗ばんだ私の手の平、その中で爪先がピクリと動いた。もちろんそれは私のじゃなくて不破主任のもので。考えてみればターミナル間の連絡バスへ急ごうと慌てて不破主任の手を掴んで走り出して、それ以降ずっと握っていたんだっけ。
──もしかして私またやっちゃいました?!もしかしなくてもやっちゃてますね。しかも現在進行形ですよね。
衿元から湿った熱気がむわりと立ち上ぼり体温が二三度上昇したような気がした。もちろん繋がれた手の平はじっとりと嫌な汗をかいている。私は慌てて不破主任との接点を振りほどいた。
「すみませんっ」
「……大したことじゃないから。気にしないで」
やや高いトーンのイケメン過ぎる主任の声が柔らかく響く。その声音が嫌味のない笑顔と相まって頭がくらくらしてしまう、と同時に人ってほんの一瞬で相手に好意を持つ動物なのねと再確認させられた。まあ単に私が惚れっぽいだけなんだろうけど。
平謝りに謝る私に対して不破主任はあくまでも優しい、というより優しすぎる。次第に私の思考は停止し始め頭の中が真っ白になっていった。
「八神さんって見掛けより大胆な行動するんだね。ちょっと驚いたよ」
──チ…違イマ…本当ハモット気ノ小サイ人間デシテ…。
「どんくさいから手間がかかるって三郎が言ってたけど……」
──ハイ、モウ…ソノ通リデス。
「僕は嫌いじゃないな」
──えっ?!
前を向いた不破主任が笑いをかみ殺しながらポツリと溢した。
「面白いしね。朝からラッキーだと思ったよ」
すっかり固まってしまった私の肩に不破主任はそっと触れると、軽く押して先を急ぐよう促した。優しげな風貌なのに主任の指先からは有無を言わせぬ力強さが伝わってきて、知らず知らずの内に彼のことを意識させられてしまう。横を歩く主任に聞こえてしまいそうなほど拍動が激しい。
「五分間隔でバスが来るから。あれに乗ろう」
バス停を指差した主任が白い歯を覗かせた。
よく整備された路面なのだろう。氷の上を滑るように連絡バスは緩やかに走る。時おり継ぎ目か何かを乗り越えるのかガタンと揺れた。車内の乗客は皆沈黙したままぼんやりと前方を見つめている。そんな中、私は主任の言葉の意味を反芻しては赤くなったり青くなったりしていた。
実際は上司が女性社員の、今の私は名目上派遣なんだけど、その女子の肩に触れるのはセクハラって言われかねない、よね。ていうか訴えられたらかなり黒に近いグレーだし。けど相手が不破主任だと逆に嬉しいから違うような、むしろもっと触れて欲しいっていうかさ。あれ、私って何考えてんだ。
横に立っていた不破主任がクスクスと失笑を漏らしている。私はまた独り百面相でもしていたのかと思うと、恥ずかしくて横を向けない。冷や汗をかきながら窓の外へ視線を逃せば、真っ平らなコンクリートの照り返しが眩しくて堪らず目を逸らせてしまった。
強い陽射しの中、輝く白い機体が整然と並ぶ姿はとってもシュールで、スーツが似合う不破主任の横顔は知的でクールだった。そして主任の横に立つ間抜けな私。そう考えると居たたまれなくなってくる。ほどなく連絡バスは第一ターミナルに到着した。