鍋でカオス 17
「神崎に関して何か対策はされたんですか?」
「それはお前らの再教育次第だろうが。そもそも誰が採用したんだ」
潮江代理が憮然としながら尾浜さんをジロリと見遣る。でもそんなことで動じるような尾浜さんじゃない。
「『稀に見る決断力の持ち主はウチの部署に必要な人材です』と安藤部長が強く主張されたもので…」
山田常務も懐疑的でしたがね、と尾浜さんはわざとらしく溜め息を吐く。そういえば安藤部長は取締役本部長で役員兼務だったと思い出した。
それを聞いた潮江代理はそれきり黙ってしまった。でも奥歯を噛み締め顔を赤くしながら怒りを堪えているところをみると、言いたいことが山ほどあるようだった。でも相手は部長だから言うに言えない訳で。
「だから部長から福利厚生に働きかけて、例の独身寮作ったんでしょう?」
「あれは…」と食満係長が何かを言いかけて口をつぐんだ。係長をジロリと一睨みした潮江代理がその話を引き継いだ。
「俺達同期が相談した結果だ」
黙って聞いていた鉢屋さんが「ナルホドねえ」と眉を吊り上げる。
「どうりでね。先に借上げ先のアパートまで全部お膳立てが済ませてあったから妙だと思ったんですよ」
だいたい脂オヤジは何でも人に丸投げするから、とぶつぶつ呟きながらソファの端でクッションに背中を預ける善法寺先生へ目を遣った。
すると今まで黙って成り行きを見守っていた立花先輩が口を挟んできた。
「お前たち、折角の食事の後に脂オヤジの話をするな」
腕組みをしてるってことは先輩がかなり苛ついていて不機嫌という証拠だ。
「胃もたれするだろうが」
あ、問題はそこですか…。
「ともかく文次郎は頑張れ、全力で予算編成を頑張れ」
いつもの先輩に比べたらアバウトな助言だと思う。依然、色白のお肌は変わらないけど、意外と先輩は酔っているのかもしれない。私と尾浜さんが下に行ってる間に随分とワインの空き瓶が増えているような気がするし。そんなことをぼんやり考えていたら、突如、立花先輩は私の方へ向き直った。
「睦美、ここは男ばかりで暑苦しいから外で涼むぞ」
やっぱり酔ってるんだろうな…。先輩にいつものキレがない。とはいえ従う他ない私はコートを着込むと先輩の後についてバルコニーへ出た。
濃紺の夜に浮かぶ金銀の明かりが冬の冷たい空気の中で星のようにチラチラと瞬く。見渡す限りの灯り一つ一つの下に、各々の人の様々な生活があるのだと思うと気が遠くなりそうだった。この中には恋人がいて夫婦がいて、家族がいて、出会いがあって、別れがあるのだ。
立花先輩は前のめりで手すりに肘を置くと遠くの景色をぼんやりと眺めている。私は先輩から少し離れて手すりに寄りかかった。
「ねえ、先輩…」
「何だ…」
前を向いたまま答えた先輩の後れ毛を冷えた風がそっと撫でる。先輩の付けていた香水がふわりと香った。その瞬間、先輩の女の部分を色濃く感じる。でもそれはいつもの攻撃的な匂いとは違って、食事の邪魔にならないようなほのかな香り。だから私も今の今まで気がつかなかったのだろう。
「私は…誰かを選ばなきゃいけないんでしょうか…」
立花先輩がこちらを向いた。遠くの街灯がぼんやりと反射しているその整った顔立ちは、私の目にはいつになく優しく、そして儚げに映った。
「それは、奈々子次第だろう?一人を選んで深く関わるか、選ばずに皆からちやほやされるか、或いは…」
先輩は意味深に微笑んでみせる。
「誰も選ばないか…、だな」
───私のように…。
その囁きはあまりにも聞き取り辛くて風の音でかき消されてしまったけど。微かに寂しさが滲んだ立花先輩の言葉に、私はただただその場に立ち尽くしていた。
視界に広がる夜の景色を先輩と二人並んでぼんやりと眺めている。私は一体どうしたいのだろう。今、暖かな部屋の中にいる人の誰かと深く関わりたいの?それとも今ここにいない人と共に過ごしたいの?
『迷うなら止めろ』
それは私が買い物をするときの基準だけど、それがこの場合にも当てはまるのかどうか分からない。
「先輩、やっぱり私…」
もう一度立花先輩の方を振り向くと、そこにはもう先輩はいなかった。代わりにいたのは…。