鍋でカオス 15
えっ、今なんて、と私は潮江代理をまじまじとみつめた。部屋から漏れる灯りだけの薄暗い廊下でも、潮江代理が頬を染めているのが見てとれた。憮然としているのは彼なりの照れ隠しだろうか。
潮江代理は誠実な人なのだろう。私が誰と付き合おうが放って置けばいいことで、むしろお節介と言われかねないのに。彼は不器用ながらも真剣に相手と向き合う人なのだ。時にそれが暑苦しくもあるのだろうけど。
「俺の部下や友人ならとっちめてやるところだ」
こんな・・・な八神さんを泣かせるとは、とやっと聞き取れるくらい小さな声で呟いた。しかも早口だったから途中が聞き取れなかった。
「そっ、そんな…」
私は言葉を失った。まさか尾浜さんのことだってバレたの?!
「まったく食満のヤツは仕方ねえな…」
よかったあああー。勘違いしてくれてて。
「でなけりゃ、人事の二人組か?アイツら調子に乗って遊んでやがるから…」
あ、あ、あ、やっぱり勘違いしてないいいー。って、彼らそんなに有名なんですか?
潮江代理がゆっくりと頷く。
「だが、社内の女の子と揉めたとか誰かと付き合ってるという話は聞かんな…」
そうですか、と相槌をうちながら逆にそれは不自然な気がした。もしかしてあの二人はイメージが先行しているのか、それともフラれた腹いせにそんな噂を流す誰かがいたのか。いずれにしてもモテそうなのは見た目のまんまだし。同性からのやっかみもあるのかもしれない。
「折角の連休に八神さんが呼び出されて、彼氏は嫌な顔しなかったのか?」
「いえ…そんな人いませんから…」
そうか、と潮江代理は視線を外すと先程より更に赤面しながら、わしゃわしゃと無造作に頭を掻いた。そして一息置くと口を開いた。
「もし…、だな。もし…、八神さんが嫌じゃなかったら、だが…」
はい、何でしょうか?
「今度ゆっくり話をしてみたいんだが…」
潮江代理は目線を下げ眉間を寄せると、ワザと難しい顔をして見せた。でも耳が赤いから、彼はこんなことをいい慣れない人なんだろう。誰かと違って。ボサボサと乱れた潮江代理の頭がまるで徹夜明けを彷彿とさせる。
嫌じゃないけど困ったと思いつつ、
「えっと、それは代理と二人っきりで会うってことですか?」と分かりきったことを尋ねた。潮江代理は憮然としながら答える。
「その通りだ。嫌ならいい」
「嫌じゃない…です。けど、色々と問題が…」
何が問題んだかよく分からないけど取りあえず。
「嫌じゃないなら、いいだろう?」
今まで眉を寄せて不機嫌を装っていたいた潮江代理が、突如余裕の笑みをこぼした。女の子を誘ったりするのは不慣れな感じがしていたのに、今のこの代理の表情は一体…。いつも生真面目な人が、こんな微かに欲を滲ませた顔もするのだというギャップに、ゾクリとする。
「問題があるなら俺が一緒に解決の手助けをしてやる」
だから心配するな、と潮江代理は頼もし気に口元を緩めた。一体、そんな自信はどこから湧いてくるんだろう。
もし私が潮江課長代理を選んだなら、物足りない部分はあるけど、きっと大事にして貰えるのだろう。よく喧嘩しているあの食満係長とどこか似たタイプだと思うし。それに食満係長みたいに変な要求、例えば「これ着てみてー」とヒラヒラしたエプロンを一枚だけ持ってくるようなことはしなさそうだ。あ、もちろんこれは私の妄想で、係長って何となくそんなイメージがするからだけど。
「あの…私は…」
ごめんなさい、と頭を下げかけて、何も潮江代理は付き合ってくれと言った訳じゃないことに気がつく。仕事が終わった後で話をするくらい、まあいいじゃん。
「はい、潮江代理の都合がつく日に」と答えた。
その言葉が意外だったのか代理は少し目を見開くと、次の瞬間「そうか」と頬を持ち上げた。
「予定を調べておく、後で伝えるからな」
はい、というと代理は、
「ここは寒いから向こうへ戻るぞ」と灯りのもれているリビングへ目線を遣る。珍しく尾浜さんが邪魔しに来なかったから私は拍子抜けしてしまった。と同時に機嫌良さげな潮江代理には申し訳ないけど、一抹の寂しさも感じていた。あの暖かい灯の中に皆がいて、その中で尾浜さんも話の輪に加わっているのだろう。もしかして私は尾浜さんが邪魔しに来るのを期待していたのだろうか。潮江代理の口にした『不実な男』という言葉がいつまでも耳に残っていた。