鍋でカオス 14
私は鉢屋さんと目を合わせないようにしながら買い物袋を持ち上げた。
「あの…」
「気にするな。俺も気にしないし」
即座に鉢屋さんは返答してくる。
「よくあることだからな」
そうなの…。よくあることなんだ…。鉢屋さんも、尾浜さんも。
そんな私の様子を目にした鉢屋さんは慌てたようだった。
「あっ…、いや。そういう意味じゃなくって、だな」
他にどんな意味があるんだよ、と少し黄昏た気分になる。
でもずっと前に立花先輩から『据え膳でさえお残ししない』と言われた相手だ。いい歳した私が、たかがキスされた程度でこだわるのも馬鹿げている気がしてきた。そもそも、そういう人達だし。仮に鉢屋さんとさっきみたいな状況に陥ってた可能性だってあるのだから。
「そうよね」と気を取り直すと鉢屋さんは
「しょうがないヤツだな」と呟いた。えっ、何で?と私は荷物を持ったまま鉢屋さんに振り返った。
「いや、こっちの話」
「聞こえるように言ったんでしょ?」と返せば呆れ顔で溜め息を吐いた。
「奈々子、お前立ち直りが早いな…」
それが取り柄だもん。
「なんつーか…勘右衛門が可哀想になってきた」と小声でいった。
「女慣れした男に翻弄されてる私のが可哀想だと思います」と口を尖らせてみる。すると鉢屋さんは片眉だけ持ち上げるお得意の仕草で私をチラと流し見た。
「人間、己のことは分かってないもんだな」
そんなことないもん。私、普通の事務職の…どっちかってと冴えないタイプだし。
「わかった、わかった」と鉢屋さんは面倒臭そうに手を振ると玄関のドアを開けた。室内の暖かい空気がどっとこちらへ押し寄せる。鉢屋さんは先に私を中へ通すと鍵をかける。そして焦りながら立花先輩の待つ台所へと氷を運んでいった。
「遅かったな。寒かっただろう?」
迎えに出てくれた何も知らない潮江代理が、先程と変わらぬ穏やかな声音で労ってくれた。でも何となく後ろめたい気がするのは、代理にお父さんっぽい雰囲気があるせいだけじゃないだろう。今は嫌なことがあった訳じゃない。でも職場で話したこともなくほぼ初対面に近い私に対して、『何かあったら俺に言え』なんて言ってくれる頼もしさに、迷わず甘えてしまいたくなる。尾浜さんとあんなことをした後なのに。
もっとも尾浜さんは何とも思っていない感じだったけど。でもそれが今の表現しがたい気持ちの原因だった。おそらくトロい私を尾浜さんはからかっているだけなんだろう。
遊び慣れた人だと聞いてはいるけど、それでも。私を口説くときだけは真剣であって欲しいと、心のどこかでそう思うのだ。だけど信じたいけど信じきれない私がいる。一体どちらが真実の彼なのか決め手はどこにもない。エレベーターに乗った直後の寂しげな尾浜さんと、エレベーターから降りた後「明日になれば忘れる」と、しれっと立ち去る尾浜さんと。
「どうした?」
不意に押し黙った私に潮江代理が心配そうな顔で手を伸ばしてきた。そして私からビニール袋を受けとると、
「俺で良ければ話してみろ」と真剣な眼差しで私を見つめる。理由はある、あるけど……いえない。
「潮江代理…」
「…な、泣くな…泣くなら」
潮江代理は仏頂面になると奥へ姿を消した。今回は目も潤んでいなかったのに、どうして?と私の方が狐につままれたような気持ちになる。リビングからは心地よい音楽と愉しげに談笑する声が響いてくる。この選曲は立花先輩の趣味だろうか。気だるく眠気を誘う曲調だった。
「すまん、先に荷物を置いてきた」
さあ、話してみろと潮江代理が急かすけど、いきなり言われても無理ってもんです。第一もう落ち着いてしまったから、話してスッキリしなくたって大丈夫だし。
「ありがとうございます。もう大丈夫…」
そういいかけた所で突然、本当に突然だった。
「なあ、八神さん。俺から言うのは難だが…」
潮江代理は一瞬口ごもった。
「…不実な男と付き合うことはない」