鍋でカオス 10


さっきまで塩水の滲んでいた目許をサッと拭いて、洗面所で顔と髪の具合を確かめる。案の定、頭は乱れていたけど瞼はあまり赤くなっていない。これなら戻っても大丈夫だろう。

「睦美、我々は先に頂いてたぞ」
「どうぞお構い無く」と立花先輩に笑顔を返して土鍋を覗けば、雑炊も残りあと数膳分といった具合だった。でも、いつもなら真っ先に席について一番最後まで食べている筈の尾浜さんが、そこにはいない。
仕事上、始終顔を会わせているからついつい気が緩んで、彼にはキツく当たってしまうことがある。それに相変わらず尾浜さんは、本気かそうでないのか今イチ掴めないところがあって、それがより一層私の警戒心を強めていた。
だけど、いつも私の周りを漂っている尾浜さんの姿が見えないと、それはそれで気になって仕方がない。折角残しておいて貰ったのに、たったの一膳のことなのにあまり箸も進まなかった。

立花先輩の携帯が震える音。先輩はサッと取り出し眉間を寄せて画面を眺めていた、と思ったら私に向かって一言。
「荷物が重いらしいから下まで手伝いに行ってやってくれ」
「力仕事なら私が」という鉢屋さんに立花先輩は、
「洗い物は睦美の手が荒れるからお前がやれ」なんていっている。外も寒いしどっちもどっちだと思うけど。
「よし、鍋がきれいになくなった所で、デザートにするか」
私が残していた雑炊は目を離した隙にご飯の好きな潮江代理がすっかり平らげていた。
「だが、その前に…、全員でここを片付けろ」と立花先輩はこのリビングに居る者全員を見渡した。涼しい顔してすましている先輩は力仕事をする気など全くないらしい。
「じゃいってきます」とコートに手をかける私に、食満係長が、
「俺が行こうか?」なんていってくれた。すかさず立花先輩は、
「留三郎は文次郎とテーブルを片付けてリビング用のローテーブルに入れ替えろ」と命令する。さすが女王仙子先輩。潮江代理と一緒に作業しろといわれた食満係長は舌打ちをしていた。でも確かに天板に大理石を使用したあのローテーブルは二人がかりじゃないとキツイかも。
「あの…、僕は何しようか?」
「伊作?お前は混乱の元だから、じっとしていろ」なんて言われた善法寺先生がちょっと気の毒な感じがした。


私は暖かい室内から外へ出て下へ向かう。陽が落ちて気温が下がったのか、吸い込んだ空気が粘膜を冷やし鼻の奥がツンと痛い。下で助っ人の私を待つのは、あの場にいなかった彼だろう。
昇降機の階数を示す数字が一つずつ増え『10』を示すと、私の立つフロアで静かに停まった。ふわりと下へ降りる箱の中で、私は一体どんな顔して尾浜さんに会えばいいかと、あれこれ想いを巡らせていた。

 ───好きなの?
 ───どうだろう…

自分でも分からない。だって私は女慣れし過ぎの人は苦手だし。只でさえ間抜けだと自負しているのに「さあ騙してください」と言わんばかりに、抜け目ない、しかも遊んでるといわれてる人へ自らを明け渡すことなんて到底出来ない。でも…。
一体、私のこだわっている本気と遊びの境界線って、どこにあるんだろう。もしかすると尾浜さんという人は常にその線上を歩いていて、結局その本心を誰にも見せないとしたら。
だったら、さっきのアレは一体何なのだろう。私の気の回しすぎだろうか。いつもは冗談めかして「奈々子ちゃーん」なんて馴れ馴れしく呼んでくるのに、「七紙さん…」だなんて。
告白でもなくて、只の問いかけとも受け取れる尾浜さんの台詞は、語尾上がりの疑問形だった。後に続いた『嫌われてる?』という言葉。それに含まれた微かに苦しげな響きの中に、鉤括弧に入った『俺は好きなのに』という一言を私は期待しているんだろうか。こうしている今も。

もやもやとした気持ちのまま私はロビーに出て尾浜さんの姿を探す。寒いんだから玄関の中入ってりゃいいのに、と思いながら。
立花先輩のマンションはオートロックだから、内玄関を出てしまうとインターホンで呼び出して開けて貰わねばならないから面倒なのに。
仕方なく私はドアの外へ出るが、表玄関から外を見回しても誰もいない。尾浜さんはどこから先輩に電話してきたんだろう。近くのコンビニ?それとも途中にあったスーパー?

「奈々子ちゃん?!」
不意に声をかけられた私はビクと大きく身体が震えた。

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