鍋でカオス 9
一通り皆が箸を延ばしたのを確かめた立花先輩は、
「じゃあ雑炊にするぞ」
と微笑んだ。それを聞いた潮江代理が嬉しそうに目を輝かせる。なんて分りやすい人だろう、てかどんだけご飯が好きなんだか。
立花先輩がご飯を投入し、卵を回し入れ、最後に葱と三葉を散らし、蓋をする。慣れた手つきで仕上げる先輩は仕草も優雅で本当に憧れる。
「留三郎、火を消せ」
パチンと音がして青いガス火が萎えて消えた。
「尾浜、バルコニー側の窓を開けろ。空気が悪いからな」
尾浜さんが席を立った。それと共に雑炊を蒸らす間、少しでも洗い物を減らすべく私は六人分の空いた食器をシンクへと下げにいった。
立花先輩に指示されベランダを開けて戻ってきた尾浜さんが、キッチンの壁にもたれかかり後からじっと私を眺めている。そんな気がする。その尾浜さんのあからさまな視線がうっとおしくて、私はついつい嫌味に当たってしまう。
「……何かご用ですか?」
「いや、別に……」
珍しく尾浜さんが口ごもる。言おうか言うまいか迷ったみたいで微妙な間だった。
「……俺さ、七紙さんに」
───嫌われてる?
瞬間、私の身体中に熱波が走って体温が上がる。尾浜さん、いま何て……。じゃなくて、私の聞き間違い?それに何か別の意味が行間に込められてた気がするのは、私の気のせい?
「もうっ!なに下らないこといってるんですかっ」
半ば焦り半ば苛つきつつ振り返れば、そこにはもう尾浜さんの姿はなくって。まるでそこには初めから誰もいなかったとでもいうかのように壁があるだけで。
誰もいないキッチンに私はぽつんと独り取り残されていた。リビングから漏れてくる賑やかな話し声と黄みがかった暖かい灯が、とてつもなく遠くのものに感じられた。
「雑炊できたぞ?八神さんは食わんのか?」
潮江代理が扉の間から少し赤い顔をひょっこり覗かせた。その迷わず頼りたくなってしまうほど、年配者のように落ち着いた風貌には申し訳ないけど安心してしまう。
「今すぐ行きます」
私は日本酒の補充にきた潮江代理の後についてリビングへ戻ろうとした。でも、
「何ちゅー顔しとるんだ?」
突如、振り向いた潮江代理は頼もしげに笑いかけながら、まるでお父さんのように私の頭をぐりぐり力強く撫でてくる。酔っているからか手加減が全くなくって、間違いなく今の私の髪はくっしゃくしゃになってるだろう。
急に消えてしまった尾浜さん、例えるなら賑やかな街中で迷子になった時のような妙な心細さ。そこに現れた迎えの大人の人、それが潮江代理。もし先輩の家でなければ潮江代理に抱きついていたかもしれない。もちろん恋愛感情は抜きだけど。
「なっ、何だっ!どうした?泣くな!」
潮江代理の与えてくれる妙な安心感に、とうとう私の瞳からは雫が溢れてしまったらしい。目の前の潮江代理が大慌てになる、と同時に頬を伝わる温い水の感触に気付いた私も焦った。
「あのっ、こ、これは違いますっ!潮江代理とは全く関係ありませんからっ!」
こんなところを誰かに見られたら何を言われるやら分からない。潮江代理にまで迷惑が掛かってしまうじゃないの。
「潮江代理のせいじゃないですからっ!」
「そんなに焦って否定されたらかえって疑うぞ」
俺は八神さんに何かやったか、なんて一瞬のうちに酔いの冷めた代理が思案顔で腕組みをする。
「いえ、本当に違いますので…」
潮江代理がじっと私の様子を観察している。隈と疲れが目立つけど、この人はそれなりに整ったルックスの持ち主だと思った。
「……八神さん、留三郎に何かされたのか?」
心臓がどくりと鳴って胸がきうと切なく縮む。
違う、その人じゃない。
「そうじゃない…、です」
そうか、そういったきり潮江代理は黙ってしまった。何とこの場を収めようかと逡巡しているのだろう。やがて彼は躊躇いがちに斜め上へ視線を泳がせながらおもむろに口を開いた。
「何かあったら、直ぐ俺にいえ」
そういって潮江代理は再び頼もしげに頬を持ち上げる。もう一度私の頭を撫でたその掌は先程と違ってとても優しかった。