鍋でカオス 6
鉢屋さんの顔を見るのが恥ずかしいけど、一体何分くらい外に居たのかと尋ねてみる。
「さあ、十分も経ってないだろ…精々五分強じゃないか?」
この面積のマンションで二人して五分も消えてるのはマズイ。
「気にしてんのは食満係長ぐらいだろ?」
それが問題なんですって。
「まあ他のヤツは私がアルコール入れといたから大丈夫じゃないか?」と鉢屋さんは口許を不敵に歪めた。
「奈々子、たまには私のフォローも評価しろよな」
重々承知しておりますです、ハイ。この埋め合わせは必ず…。
「言質取ったからな」と鉢屋さんは厭な笑顔になると手にしたケータイを握りしめた。何かもう今日は色々と散々だからあんましインパクトを感じないんですよね。すると鉢屋さんはつまらなさそうにケータイを閉じた。
「何だ、反応がないとツマランだろ?」
「もうそんな元気ないです…」
また尾浜さんに喰われかけたし。そう呟くと鉢屋さんは片方の眉だけ上げてニヤリとした。
「だったら尚更、立花先輩の家で良かったじゃないか」
何ですとぉ?
「今日、普通に勘右衛門と会ってたら今頃『アッーー』な展開だぞ?」
そうですねえ、まあ、前向きに考えることにします…。
「ほれ、奈々子、サッサと来い。もう勘右衛門は行っちまったぞ」
そういって手を差し出す鉢屋さんはまるでお兄ちゃんみたいで。そういや前に私のことを『鈍臭い自分の妹みたいで気になる』と話していた鉢屋さんが脳裏に浮かんだ。出されたその手を恐る恐る握れば温かかったけど、やっぱり尾浜さんと同様、柔らかいのに所々ゴツゴツしていて固い。少し捲った袖口から覗く手首も意外に筋肉質で、仕事柄身体を鍛えているのだろうと容易に推測された。
でも突然今になって、私は鉢屋さんのことを男の人だと初めて意識した。慌てて握っていた手を振りほどこうとしたけど鉢屋さんは意地悪そうに頬を持ち上げ掴んだその手に一層力を込める。そして焦る私を愉快そうに見つめた。
「私には油断してた、だろ?」
「…………」
言葉が見つからない上に、有り得ないほど早い拍動にもう心臓が破裂してしまいそうになる。鉢屋さんの柔らかそうな髪が冬の夜風に揺れているけど、あまりにも突然のことで私も寒さを感じない。
街の灯が鉢屋さんの顔の凹凸に反射して、その憂いを帯びた面差しの陰影を際立たせている。夜の蒼さに彩られた今の鉢屋さんはいつもの彼からは想像もつかないほど色気があった。もうどうしたって胸の高鳴りが治まらない。こんなところで、またときめいてしまってどうする奈々子、どうする私。
「たまには意識して欲しいね」
微かなそして寂しい笑みをこぼしながら鉢屋さんは聞こえるか聞こえないか位のかすれ声で囁いた。
「私も男だから」
耳をくすぐるその響きに頭がぼんやりとして、私は暗がりにたたずむ鉢屋さんをただ見つめていた。
ゆっくりと鉢屋さんの手が伸びてきて私の頬に触れる。細長い指先は抗い難くて私は吸い寄せられるように鉢屋さんへと近づいていった。こんなに間近でまた鉢屋さんを見ることになるなんて。
あの日と変わらない整った顎のラインが、鉢屋さんの肩越しに見えた夜空にぼんやりと浮かび上がる。注がれる鉢屋さんの眼差しは限りなく優しげで、今はその瞳に私だけを映していた。鉢屋さんはほんの少し目を細める。ゆっくり屈みながら次第に縮めてくるのは、私と鉢屋さんとの唇の距離。
「奈々子ちゃん!鉢屋。まだいたの?」
突如、部屋から響き渡る明るい声。尾浜さん!あなたまだいたんですか?
「俺は一杯呑んで戻ってきたんだけど?!」
そうですか。いきなり鉢屋さんとのイイ雰囲気をぶち壊してくれてアリガトウ。鉢屋さんも珍しくムッとしてるし。
「いえいえ、どういたしまして」
そういう意味じゃねーよ。でも、たぶん。尾浜さん、わざとやってるよね。人の恋愛成就フラグ全部へし折る気でいるよね。
「さ、戻ろっか」
そんなことはまるっと無視した尾浜さんは私の肩をそっと抱き寄せた。鉢屋さんは面白くなさそうな顔をしてたけど何も言わなかった。去り際に一瞬だけ尾浜さんは横目で鉢屋さんへ視線を送ったけどそれが驚くほど冷ややかで、目撃してしまった私はぞくりと肌が粟立った。