鍋でカオス 5
そもそも尾浜さんてば場所知ってるでしょ?だって冷蔵庫が一杯になった時、自分から「今の時期、ベランダに出しとけば一発で冷えますよー」って立花先輩に提案してたし。
そんな尾浜さんは隣の部屋からバルコニーに出ると、私を引っ張り出してから後ろ手でガラス戸を閉めた。
「さてと…」
なっ、何のつもりよっ?!尾浜さんはガラス戸を背にして立っているから私は逃げようがない。いや、でも隣の部屋の鍵がまだ開いてたかも?そんな私を見透かしたように尾浜さんは目を細めた。
「隣の部屋なら、さっきの騒ぎの後、立花先輩が閉めてたねえ」
いつもながら鋭いご指摘ありがとうございます。
「ねえ、奈々子ちゃん。どうしてこの間は返信してこなかったの?」
そりゃあ勿論、不要不急だと判断したからですよ。尾浜さんからのメールはほとんど九割方急がない内容だもん。でも、もし、他の誰かにメールしてて忘れた、なんて言ったら私はどうなるんだろう、ふとそんなことを考えた。
外に置かれた灰皿から消えた煙草のツンとする臭いが漂ってくる。冷たい空気が薄着の私の肌を刺した。
「寒いよね…」
おいでよ、と腕を広げる尾浜さんのそれが、まるで捕食専用の触手みたい感じられる。私がふるふると左右に首を振れば、尾浜さんは酷薄そうな笑みを浮かべて愉しそうに囁いた。
「俺が怖いの?」
怖い、思いっきり怖いです、なんて言える筈もなく。寒さで震えているのか、それとも怖くて震えているのか、私にもよく解らなかった。追い詰めることを歓びを感じるように尾浜さんは一歩前に出ると私に近付いた。
「やっぱり怖いんだ」
尾浜さんがフッと笑った時には既に身体が浮いていた。気配を察した尾浜さんは蹴ろうとした私をかわし脇に回ると肩を押した。私の身体が勢いでくるりと反転すると引き寄せ抱き留める。私は正面から抱き合う形で尾浜さんの腕に収まった。
こっ、ここはバルコニーですよっ!墜ちたらどうするんですかっ!
「俺も寒いよ…」
腕の力が強くなる。確かに温かいけど…。
「返事が必要ならどうでもいいメールは送らないで下さい」
「了解…でも、たまにはさ…」
尾浜さんが私の首に顔を埋める。血の通う生き物の温もりに気持ちも解れて、尾浜さんを許してもいいかと思ってしまう。雰囲気に呑まれた私は知らず知らずの内に尾浜さんの背に腕を回していた。
「ねえ尾浜さん。もし…ね、他の誰かとメールしてて忘れたっていったら…」
「…そいつ、男だったらどうなるだろうなあ」
フフと笑う尾浜さんはやっぱり怖いかも。柔らかな何かが首筋に当たって私の鼓動が益々早くなった。
冬の宵は急ぎ足でやって来る。透き通った寂しげな冬の夕焼けも既に消え失せ、辺りはもう真っ暗になっていた。高層階にある立花先輩のバルコニーからは、金銀の砂を撒いたように遠方の家々の灯が冷たい夜気の中で煌めいていた。
尾浜さんはもう一度腕に力を入れてギュッと抱き締めると私を解放した。袋に入ったままの冷えきったビールを一袋だけ私に手渡し自分は残りの袋とワインを何本か抱える。
カラカラッ!
いきなりガラスサッシの開く軽快な音に私は飛び上がりそうになった。
「おい、勘右衛門。何してんだよ。いい加減怪しまれるぞ」
ほらサッサと入れ、と鉢屋さんは顔をしかめながら注意するけど、尾浜さんはどこ吹く風と受け流した。
「トイレにこもってたって言っといてよー」
「んなこと食事中に言ったら立花先輩にどやされるっつーの」
手首の時計を見ようとした私は水仕事の際外したのを思い出した。