見逃して下さい 1
昼過ぎと同じように、注意深く辺りを見回す富松さんに見送られながら、私は事務所を後にする。
「そういえば…」
昼過ぎのナメクジ騒動以降、小松田さんの姿が見えないことが気になった。
「ああ、小松田さんなら彼の特性を生かした仕事に出ています」
富松さんは心配要らないからと頼りがいのある笑みを見せる。
「竹谷代理の提出した試験場の勤務表が間違っていたから…」
どうやら小松田さんは竹谷代理を『どこまでも』追いかけていったらしい。しかも代理は総務に来た後そのまま郊外の試験場に戻ったそうで…。
「小松田さんは我社の『サイドワインダー』と言われてますからね」
今朝紹介された時のことを思い出してあっと息を飲む。小松田さんって…まさかそんなこと本気でやるとは思ってなかったけど、あの話は大真面目だったんだ。富松さんはやるせない表情で溜め息を吐いた。
「それとね、ナメクジが脱走した場合は、総務部内でガイドラインが決まってるんです」
ビシリと人差し指を立てる。
「『被害の拡大を防ぐため小松田さんを外に出せ』ってね」
返す言葉のない私は小松田さんの話をスルーして富松さんにお礼をいうとエレベーターに乗った。
前と同様に一旦別の階で降りて乗り換える。今度こそ商品開発課のある階を避けて慎重にボタンを押すと、程なくグンと圧が掛かり狭い空間は上昇した。
メークを落とす必要はないけど今日も控室に寄って帰るのは、それがもう習慣になってしまっていたからだ。でも、いつものように部屋に入れば、誰もいないと思いきや藤内美ちゃんが待ち構えていて、しかも兵ちゃんまでいた。猛烈に嫌な予感がする。その兵ちゃんは開口一番で私に、
「さっき録画チェックしてたんですよ。ホント奈々子さん、今日一日は散々でしたねー」
「ちょっと、兵ちゃん。奈々子さんだって望んでのことじゃないんだから」
藤内美ちゃんが兵ちゃんをたしなめた。ホントその通りだけど。でも今日は今から私にとって最大の難関が待ち構えてたりする訳よ。いえないけど。
「経理の神崎さんてば今日も傑作でしたよ」
兵ちゃんは白い歯を見せながらイヒっと口元にだけ弧を描く。いかにも悪いこと考えてます、みたいなそんな顔。それってどういうこと?
「もう彼のことウォーリーって呼びたいところですね」
ああ、細密画に潜んでるボーダーの長T着た眼鏡の彼ですか。どうして?
「いっつも惜しいタイミングで富松さんが捕り逃すんですー。でも段々追い詰めるんですよね。今日は神崎さん一人だけど営業の次屋さんが入ると、もう最高です!」
複数の録画を同時に再生すると、どこに誰がいて、どう追いかけっこしてるかがよく分かるんです。編集してツベにアップしてもイケそう、なんて朗らかに言う。悪気があるのかないのか、今一つ不明な兵ちゃんはつかみ所がない娘だ。
「ところで久々知さん、奈々子さんに何て言ってたんですか?」
心臓が口から飛び出そうになった。
「珍しく主任、積極的に見えましたよねー」
見たのっ?!いや、撮られてるのは分かってたことなんだけども。
興味津々で瞳を輝かせる兵ちゃんの追及は揺るがない。仕方ないから部分的に答える。
「んー、何だか…久々知主任、誤解が著しいんだよね」
「どんな風にですか?」
藤内美ちゃんまでが身を乗り出した。
「未だに七紙さんと八神さんが別人だと思ってるんだもの」
あれほどヒント出しちゃったのに、と二人の顔を交互に見比べる。
「ああー、久々知主任鈍いから…。前に綾部先輩が落とそうとしたのも気がつかなかったそうですしね」
気づいた土井課長が逆に神経性胃炎になったらしいし、と肩を竦めながら藤内美ちゃんが呟いた。兵ちゃんがクスと笑いを噛み殺しながら、
「一応バレてなかったってことだし、良かったじゃないですか」
「まあ、そうなんだけどね、何か微妙…」
そう、まさに胸中複雑なのだ。別に私は変装が上手いわけではないし声だって変えてない。なのに何故久々知主任は分からないんだろうか。