けだるい午後 3


ナメクジを触った訳じゃないんだけど、見ていたら何だか気持ち悪くなってしまった。なので係長に断りを入れて気分転換に手を洗いに出た所で携帯が震えた。たぶん尾浜さんだろう。ずっと食満係長が傍にいたから携帯なんて見るどころじゃなかったし、丁度よかったと胸を撫で下ろす。

From:勘ちゃん
Sub:大丈夫?
ショクマンに何かされてないか気になっててさ?
先日行った定食屋向かいの甘味屋に6時半ね

係長と二人で言い合ってりゃせがないよ、としょっぱい気持ちになりつつ尾浜さんへは手短に返信する。
『了解です。就業中だから何もされてませんよ』
『よかったー、じゃ後でね』

ていうか尾浜さん、自分こそ私に何かしようとしてたクセに。今度こそ甘味屋だけで帰るぞと決意を新たに時計を見れば、もう五時四五分を回っていた。尾浜さんは本当に時間に正確だ。たぶん仕事もデキる人なんだろう。ササッと必要なことを済ませてなるべく早く退社し、後の時間を趣味なり勉強なり有効に使う、尾浜さんはそんなタイプに見受けられた。
残りは十五分程。食満係長を適当に遣り過ごせば今日の業務は終わる。もう後のことは係長からのマークは甘い、七紙奈々子さんに頑張って貰おう。ま、彼女も私な訳なんだけど。ただ今日のお昼の失態で、食満係長に正体がバレてるかバレてないかが気になる所だった。

事務所に戻れば食満係長がまた声をかけてきた。ヤバい、終業後まで拘束されちゃうんだろうか、とハラハラとする。「今日は約束がありますから」と言って逃げるしかないか、と私は一瞬のうちにそんなことを考えた。
「八神さん、月曜のことだけど…」
その声にドキリと心臓が大きく跳ねる、もちろん悪い意味で。瞬間慌てたけど、あることを思い出してほっと胸を撫で下ろす。来週から七紙さんは別の場所へ行かせるって今朝立花先輩がいってたっけ。
「月曜からはもう、次の行き先が決まってます」
食満係長は残念そうに眉を下げた。やっぱりこの人は格好いい、と思う。
「そうか残念だな。でも…今後を含めて人事に要請しといたから」と柔和な笑みになった。
それは困る。非常に困る。けど、尾浜さんや鉢屋さんが多分に邪な意図が入った申請は撥ね付けてくれるだろう。それに藤内美ちゃんもいることだし。
「また次回お邪魔した際は宜しくお願い致します」
営業スマイルを見せながら微笑めば食満係長は目尻を下げる。彼のサラサラの髪が嬉しそうに揺れ動いた。
会議室かどこかで係長と私の二人きりじゃなくて本当に良かったとつくづく思う。ハッキリいって食満係長は変だけど、思いきってその胸に飛び込んだなら、恐らく私を大切にしてくれる人だろう。もっとも付き合ったら付き合ったで、変な要求が多そうな気がするけど。

先ほど気を利かせてくれた事務のオバちゃんが、またもやウインクをしてきた。
「八神さん、今日はもうお願いすることないから帰っていいわよ」
「ありがとうございます」
頭を下げながら、まるで尾浜さんとのメールを見たかのような事務のオバちゃんのナイスアシストに舌を巻く。あれで意外に隙のない尾浜さんのことだから、オバちゃんにまで根回ししているのかもしれない。本来なら私が真っ先に帰るのは難しいけど、ベテラン事務職員のオバちゃんには誰も逆らえないのか他の人からも異論はないようだった。
「ではお先に失礼します」
「あ、八神さん!」
マズい!今、食満係長の目が鋭く光った。早く逃げないと捕まる!
「それで今日の晩ご「ちょっとぉ、係長!」」
声のする方へ食満係長は振り返った。
「な、何です?いきなり」
「この書類ね、急ぎに変わったから」
事務のオバちゃんが絶妙のタイミングで係長印を押すよう要求してくれた。私は間一髪、際どい所で食満係長のお誘いから逃れることができたのだ。富松さんが入り口のドアの影でコッソリ私に手招きしながら、
『この隙に早く帰って下さい』と口パクで伝えてくれている。

「えっ、今日中?!急がないんじゃなかったんですか?」
「小松田さんのミスで手数料がウチ負担に変わったのよぉ」
「またぁ?!」
扉を閉める間際、食満係長の困惑する声が耳に入ってきた。

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