けだるい午後 1
その日の午後は皆ナメクジ拾いに疲れはてたのか、気だるい雰囲気が漂っていた。初夏の午後の陽射しがガラスの大窓から入ってきて眠気を誘う。でも眠気を覚ますあの声が…。
「八神さんいるー?」
その声に眉を寄せてサッと反応する食満係長…と私。だが顔を上げた瞬間、食満係長は目元も口許もサッと弧を描いた。尾浜さん、の後ろから顔を覗かせたのは、係長の姿を見てひきつった表情の藤内美ちゃん。たしか彼女は係長のお気に入りだったっけ?!
そういえば二人とも一応人事だもんね。藤内美ちゃんと尾浜さんが一緒に現れたって全然不思議じゃない。
でも、なぜだろう。二人が一緒に並んだ姿をみた瞬間、胸がキュっと苦しくなった気がした。私とは真逆のタイプの藤内美ちゃんの方が尾浜さんとお似合いに見えたから?まさか…ね、でも。残念ながら微かに胸が疼くのは気のせいじゃない。私は小さなため息を一つ吐くと尾浜さんに目線を合わせながら返事をした。
「あー、八神さん?いたいた。書類に不備があったからね」
「だったら、こちらから伺いますが…」
「いや、どのみちこのフロアに用があったし」
これみよがし明るい声が部屋に響く。そして突如、声を潜める。
「総務に来たばかりじゃ社内メール設定されてないでしょ?表も裏もさ」
と話しながら尾浜さんは既に藤内美ちゃんに気を取られている係長の様子を、首を動かさずに横目でそっと確かめる。尾浜さんはこのために撒き餌代わりの藤内美ちゃんを連れてきたと合点がいった。藤内美ちゃん、可哀想。
でもそれは機転の利く有りがたい配慮だった。というのも目新しい派遣社員のせいか、食満係長にロックオンされた私は付きっきりで指導されていたからだった。
「総務の様子も見たかったしね。それと久々知はなだめといたよ」
「すみません」
「でさ、早速なんだけど」
尾浜さんは「ココとココに訂正印押して」なんて時折よく通る声で周りに聞かせるように喋りながら、私には小声で話を続けた。
「鉢屋から連絡入ったんだ。でも肝心の立花先輩が早退しちゃったからさ…」
私は尾浜さんが指す場所に判子を押した。
「終業後いいかな」
いつになく真剣な顔つきになった尾浜さんの様子に、ただならぬ気配を感じた私は神妙な面持ちで頷いた。
突然、藤内美ちゃんの声が耳に飛び込んでくる。
「だから今日はっ、ぁっ違っ…今日もっ、都合が悪いんですっ!」
振り向けば食満係長が藤内美ちゃんにしつこく言い寄っていたようだった。でも係長のスゴイ所は決して相手の女の子を掴んだり触ったりしないことだった。暑苦しいほど押し付けがましい爽やかさで相手を圧倒するのだ。意外に賢いというか何というか…。
その様子に尾浜さんは忌々しそうに小さく舌打ちをして片眉だけ持ち上げる。
「…ったく、万年係長が。ゆっくり話すこともできやしない」
尾浜さんは書類の端をカウンターにトントンと打ち付けて揃えると、私にだけ聞こえる位の小声で伝えてきた。
「じゃ、また終わり頃連絡するから」
そういって顔を上げる瞬間、口許にだけ抜け目なさそうな笑みを浮かべた。
「浦風さーん!終わったよー」と藤内美ちゃんに声をかけて彼女から係長を引き剥がすと人事課へ戻っていった。帰り際に藤内美ちゃんが私に目配せしてきたから合意の上だと分かってホッとする。また尾浜さんが強引にやらせたんじゃないかと思ってハラハラしてたから。
藤内美ちゃんの後ろ姿を残念そうに見送っていた『残念な食満係長』は再びターゲットを私に戻した。
「人事の尾浜だけど…、八神さんに何か言ってきたの?」
いえ、届出の書類に不備があっただけです。
「そうか…ならいいけど。ここだけの話、アイツ遊びまくってるから気を付けてね」と爽やかに目を細める。
『ついでに貴方にも気を付けますね』と思いながら、やっぱり係長の方が尾浜さんよりルックス「だけ」は好みかもと、その涼しげな顔立ちをうっとりしながら眺めていた。でもそんな私の様子を廊下から尾浜さんがじっと見つめていたことなど、私は全く気がつかなかった。