会いたくないのに 3
「立花先輩!」
私は部屋に飛び込むと昼食を食べていた立花先輩に半泣きでしがみついた。乾きかけた埃混じりの汚水の臭いがふんと鼻について、立花先輩は眉間を寄せあからさまに嫌な顔をした。
「どうした、奈々子?」
それでも立花先輩の優しく響く声に、ここ数時間で色々有りすぎた私はとうとう緊張の糸が切れ、どっと涙が溢れ出した。少し驚いた立花先輩は軽く微笑むとそっと私の背に手のひらを置いた。ゆっくりと規則正しくとん、とん、と私の背中を軽く叩く。暫く涙を流すと私は次第に落ち着いてきた。
「何があったかもう話せるか?」
私は鼻をすすると事の次第を立花先輩に話し始めた。思えば昨日から長い一日が始まっていたような気がする。
食堂でのラーメン事件に始まり、神崎君にバケツの汚水を掛けられ、富松さんと食満係長にバレるわ、最後に久々知さんと微妙な再会、しかも久々知さんは全然気付いてなかったし。しかもまた最後の最後で尾浜さんに借りを作ってしまった。もう散々だ。私だけで『24h』を1クールくらい作れそうな気がする。
黙って話を聞いていた立花先輩がようやく口を開いた。
「食満にバレたのは少々厄介だったな、だが怪我がなくて何よりだった」
後で竹谷に礼を言っておかねば、と立花先輩がスケジュール帳をめくる。太い眉を思いっきり下げて困惑する竹谷代理の顔が浮かんだ。
「総務部の事務のオバちゃんには先輩が先に話を通してらしたんですか?」
「うむ、ベテラン女子職員の目は誤魔化せないからな」
下手に取り繕うのも面倒だろう?、と先輩はパイプ椅子に座るとスラリと長い脚を組んだ。
「何かあったら助けて貰うといい」
そうだったんですか、と私は胸を撫で下ろした。
でも、今から七紙奈々子がいつものスタイルに変身するにはアイテムが足りません。いつもの赤いプラフレームのメガネは割れちゃったし、肉パッドは水でビショビショで…仕方なく紙袋に放り込んで持ってきたけど。
「なあ、奈々子。これから夏に向かうだろう?夏場に贅肉パッドを着ていたら大変だ」
私は立花先輩を見上げた。
「いっそのこと、ダイエットが成功したということにして、パッドを脱いでしまったらどうだ?」
えっ、こんな短期間にですか?!
「土日があるからいいじゃないか」
どんなスゴイダイエットだよ…。アレ着るのはうっとおしかったから脱げるのは嬉しいけど。
「大丈夫だ。週明けからまた外出して貰うから、その間に痩せたことにすればいい」
いったい今度は誰とどこですか?と思ったけど、どうせ私に拒否権はないから何でもいいやと思い直す。
「今からどうしましょう…」
「替えのパッドは持ってないのだろう?だったら…」
「八神睦美で通したらどうだ」なんて無責任な答えが帰ってきた。あの、先輩。何いわれてもいいから残念な係長の残念な場面を見たくありません。
「既に食満にバレたのだったら同じことだしな。それとも半休にして午後から帰るか?」
シャワーが浴びたい。髪も洗いたい。下着も変えたい。家に帰りたい。でも…。
「まだ試用期間中だから半休とかの休みがないんです…」
「……そうだった」
立花先輩は額に手を当てて困惑した面持ちになる。だが突然ヨシ、と何か良い案を思い付いたようだった。
「私が奈々子を預かったことにして総務に派遣の八神睦美を連れていく。それなら後々バレても奈々子が欠勤したことにはならないだろう?睦美は私の従姉妹ということにすれば、そうそう食満も手が出せまい」
久々知もな、と口角を上げる。
お願いです、立花先輩。更に話を混乱させるような事態は避けたいんです。立花先輩の後輩ならまだしも従姉妹だなんてそんな設定痛すぎます。だけどそんなことを言える筈もない私は、ただ顔を引きつらせるだけだった。
「ともかくコレを使え」
先輩が私の前に置いたのは水のいらないシャンプー。
「あまりスッキリしないがないよりマシだろう?」
どうして先輩がこんなものを?と不思議そうな私を見た先輩は一言、「総務の山村」とだけ呟いて眉をしかめた。
まあ、色々とあるのだろう。だが私はまだ立花先輩と山村君との、じっとり湿った熱い戦いのことを何一つ知らなかった。だから先輩自らが総務に出向くことは決死の覚悟が必要だと、その時の私は思いもしなかった。