会いたくないのに 2
久々知さんはその長い睫毛をゆっくりと瞬かせると優しい声音で問いかけてくる。その雄弁な眼差しに堪えきれなくて私は彼から視線を逸らせた。
「なぜ七紙さん経由で伝えてきたの?」
え…??それは、もちろん……。
「キミの連絡先を聞こうとしたら七紙さんはサッサと帰ってしまったし…」
あれ?もしもし…久々知さん?!
「あの…久々知さん?!」
「会いたかったんだ、八神さん!」
まさか…久々知さんって、でもたぶんそのまさかだよね。あんなにヒントをポロポロ出したのに、もしかして気付いてなかったの?!もうアタックチャーンスってくらい凄いヒントばっかり出しちゃったのに?!
ふと美容師のタカ丸さんが話していた『久々知君、恋愛偏差値低いから』という言葉がエコーを伴い脳内で再生される。
「で、八神さんは今どこの部署に…いや、それよりどうしたの?ずぶ濡れで」
「バケツの水がー」
一瞬のうちに久々知さんの顔色が変わる。
「まさか…女子社員から苛められてるのか?!」
「ちっ違いますよ!掃除してた所に神崎さんが突っ込んできて…」
彼の繰り出した『10.00』の非常に難易度の高い技を思い出した。普通はそうそう上手くいかないのに。すると久々知さんの瞳の奥がキラリと光った。
「経理の神崎か…」
ヤバっ。真面目な人ほどキレたら怖いし、久々知さんは頭が良いから効果的かつ合理的に神崎君を狙い撃ちするだろう。ぽかんと口を開けた神崎君の悪気のない間抜けた顔を思い浮かべる。そうなれば久々知さんはもう神崎君が立ち直れないくらい精神的にボコりかねなかった。
「違うんです。偶々そうなっただけで、私が運悪くそこに居たから」
偶々にも程があり過ぎるとは思うけど。でも久々知さんの毅然とした態度は変わらない。
「いや、神崎の不注意にはうちの課も大概迷惑してるからな。俺から潮江課長代理に一言伝えておく」
静かに怒りを表す今の久々知さんは一言じゃなくて十言以上伝えそうな勢いだった。
折角「会いたかった」とまで言ってくれた久々知さんを、ここに置いてゆくのはとても名残惜しいけど、久々知さんがこの図式『七紙さん=私=八神さん』を理解していない以上サッサと逃げるに限る。
「あの、私、もう行かないと」
久々知さんは大きな目を見開いて、何も聞こえなかったかのようにじっと黙っている。私の手を握ったままで。
「あの…放して下さい」
「嫌だ」
私は己の耳を疑った。久々知さん、今何て?
「い、や、だ」
久々知さんは更に一歩前に出て私に近付いた。
「いま放したら俺は一生、八神さんと連絡が取れないような気がするから」
そんな、大袈裟な。ちゃんと七紙さんから連絡入れますから。だから放してっ。
「駄目だ。俺は人を介してなんか連絡を取りたくないんだ」
ですから、それは…。言うに言えない事実に私は一体どうしたらいいのかと途方に暮れる。てゆっか、その前に久々知さん。どうしてこの簡単な等式『七紙さん=私=八神さん』つまり『七紙さん=八神さん』って気が付かないんですか!
「八神さんは…何も言ってくれないんだな…」
久々知さんは長い睫毛を伏せてそんな台詞を溢した。だから何か言いたいのは山々なんですが、今は言えないんですって。お願いですから今、全てを目で語ることしかできない私の気持ちを読み取ってください。そう思ったけど再び『久々知君、恋愛偏差値低いから』というタカ丸さんの言葉が脳内で再生される。
「俺は…とことん嫌われてるのか…」
寂しげな声音になった久々知さんは俯いていた顔を上げると、真っ直ぐ私を見つめてきた。もはやタカ丸さんの声が脳内エンドレスになっている。いやいやいや、端から全ての話が食い違ってますから。
「あの日初めて会って…」
そんなごく部分的な人間偏差値の低い久々知さんは、なおも私の手を放してくれないまま、じっと私をガン見している。しかも更に距離を詰められているし。まあ、久々知さんは誰かさんと違っていきなり抱き締めてくるなんて展開はないんだろうけど。
でも、これには困った。この事態をどうしようかと考えあぐねていた私に突然後ろから声がかかって、私は驚きのあまり飛び上がりそうになった。
「必ず連絡します…ってさ、兵助」
この呑気な明るい声の持ち主は間違いなく私が会いたくないあの人だ。いつの間に現れたんだか。ていうかいつから見てたんだよ。
「睦美さん…かな?今は」
声のする方をそっと振り向く、…やっぱり。
彼は硬直している久々知さんの手を手際よく解くと、私に向かって目配せをした。手の甲へ目を落とせば久々知さんの指の痕がついていたる。痕がつくほどきつく握り締められていたなんて痛いはずなのに、緊張のあまり気がつかなかったらしい。
「すみません、尾浜さん。後はお願いします」
小声で伝えると、尾浜さんは片手を軽く上げて応えてくれた。それを確認した私は控え室に向かって非常階段をひた走る。頭から被ったバケツの汚水も段々と乾き始めていた。