昼休みは不運の始まり 7
「富松さん、申し訳ないけど事務のオバちゃんに水を被ったことを伝えて替えの服を貰ってきて頂けますか?」
これじゃ事務所に入れないし、そういうと富松さんは快く微笑んで取りに行ってくれた。さて服は解決したけど問題はパッドだ。これの有無で服のサイズがかなり変わるけど、今は代わりのものがない。でもこのままでは風邪を引く。
だが思案する間もなく私にいい考えが浮かんだ。
「着替えが済むまで八神さんになっちゃえばイイじゃーん」
この際、富松さんには無理やり納得して貰うことにしよう。さっきも『事情はお察しします』なんて言ってくれたし。それに八神さんは常勤の派遣じゃなくってスポットってことになってるから都合がいい。私はいそいそと名札を外すと、しっかり顔を拭いてウィッグも取った。
埃臭い水が体温で暖められて臭いが立ち登ってくる。気持ち悪いので、富松さんが戻る前に手早くパッドを外してしまおうと、スナップを外して制服を脱がずに巧く取り出した。身体が軽くなるし、二回りかそれ以上ボリュームが落ちる。それを部屋の隅に捨てられていた珈琲メーカーの紙袋に放り込んでホッとしたのも束の間、後ろから声をかけられた。
「八神さん」
「…………」
この社内で私を八神さんとして認識してるのは大変限られた人達だけだ。それは久々知主任ともう一人。私は振り向かずに返事をした。
「け…食満係長…ですか?」
「いやあ派遣って聞いてたのに全然会わないからさ。どうしたのずぶ濡れで?」
マズイ、色々とマズイ、大変にマズイ。絶対に振り向いちゃいけないと私の防衛本能が警鐘を鳴らす。
ここで富松さんが戻ってきて私の本名「七紙さーん」なんて呼ばれたりなんかしたら私死亡エンド。まさかステージ上がって直ぐにゲームオーバーだなんて思いもしなかった。
「いえ、ちょっとうっかりしちゃって…」
いや、「うっかり」つったって程があるだろ、と自分で自分に突っ込む。
「このままじゃ風邪引くから庶務においで」
肩に手を添えられて思わず変な声を上げながら振り向いてしまった。互いの視線がぶつかり合って嫌な感じで見つめ合う。いや、嫌だったのは私だけかもしれない。なぜなら食満係長はとても機嫌が良さそうだったから。
「…………」
「…………」
ああ、食満係長、あんな話さえ聞いていなかったら私、十中八九一目惚れているのに。手前に垂れてきた係長の髪がサラリと揺れる。切れ長の涼しげな瞳を柔らかく崩して爽やかに微笑む食満係長が、どうしてアレな人だと気付くことが出来るだろうか、いや、気付くことは出来ない。これを英文に訳しなさいなんて問題が作れそうだった。
ふと係長の視線が然り気無く、でも不自然に私の顔と胸の辺りを往復していることに気がついた。胸元を見ればパッドを取り出した時にボタンを外したままだったようで、慌てて止めようと私が横を向くと係長も目線を外す。けど横目でチラ見してくるのが気配で解った。
「…けっ、食満係長!」
「富松?!」
「富松さん!」
背後から声をかけてきた富松さんに振り返った食満係長のそのまた後ろから、私は立てた人差し指を口許へ持っていって必死で合図を送った。頷いた富松さんは半ば慌てながら手に持っていた制服を差し出した。
「あの…着替え持ってきました」
係長の目の前にいる『八神さん』と富松さんが知り合いらしいと知るや、途端に食満係長の目付きが鋭くなる。
「富松、八神さんはずぶ濡れだけど、どうしたんだ?」
「えっ、や、八神?…あ、八神さん?…いえ、たまたま私が居合わせて」
「そうか、てっきり富松は七紙さんと一緒に飯に行ったと思ったんだがな?」
食満係長がニヤと笑った。ああ、頭痛がしてきそう。富松さんってば思いっきり嘘つくのが下手だし。
「あの、私…届け物でこちらへ来たら床の清掃で滑っちゃって…」
半分は本当だ。滑ったのは私じゃないけど。
「八神さん、制服のサイズが合ってないんじゃないか?着心地悪いだろう?」
何でそんなことだけ鋭いんだよー。泣きたい気持ちで弁解する。
「シノビさんに派遣された当初は今よりかなり太っていたので…」
ふうん、と食満係長は私の上から下までをじっとり湿った目付きで眺めてきた。ちょっと気持ち悪い。まさか服の下まで透視してないよね、なんて馬鹿げたことを考えてしまった。
「兎に角、富松。着替え渡してロッカーに連れていってあげて」
はい、と富松さんは変な汗をかきながら私を促すとエレベーターホールへ連れ出してくれた。