昼休みは不運の始まり 3
でも私が上を向いた瞬間、「うっ」と目を見開いたのを私は見逃さなかった。その後若干ひきつってはいたものの再び無駄に爽やかな笑みにすぐ戻ったけど。
「いいから、気にすんな」
竹谷代理は多少、中華そばの汁が掛かったのか私の差し出したハンカチで腕を拭きながらいった。その部位がうっすらと赤くなっている。
「掛かったのが俺でよかったな」
先程の「うっ」はどこへやら、竹谷代理はカラリとした陽性の笑みを浮かべた。けれど突如眉を寄せて遠くへ視線を遣ると声を張り上げた。
「小松田さん、気を付けてくださいよ!彼女だって一応、女の子なんだから!」
竹谷代理、一応、女の子って…。
周囲から失笑が漏れるけど、竹谷代理は自分が失言したことには全く気付いていない。イケメン…たぶん、なのに『一応女の子』とはかなり残念な感じがする。まあ、そう言いたくなる気持ちは分からなくもないけど。それにしても、なんだかこの微妙に空気読めてない感じがまた誰かさんを彷彿とさせた。はたと思い当たる。ああ、あの人!
七松係長!
「あらまあ、あなた大丈夫だった?」
声を掛けられて振り返れば、食堂のおばちゃんが騒ぎに気づいて厨房から出てきたらしい。白い割烹着が昭和のお袋を感じさせる懐かしい雰囲気の優しそうな人。でも食堂の料理を残すととんでもなく恐ろしい。だって食器を下げに行くとき「お残しは許しまへんでーっ!」と必ず注意されるから。これといった事情もなく好き嫌いで食事を残すのは勿体ないもんね。だったら注文の時少なめでお願いします、と頼めばいいんだし。
「小松田さん、熱いもの運ぶときには気を付けてっていったでしょ!」
目を三角にしたおばちゃんが小松田さんを叱る間に、富松さんはどこからか雑巾とモップを持ってきて床に散らかった食べ物を片付けている。巻き込まれた三反田さんは誰にも気付かれないまま捻挫でもしたのかうんうん唸っていたらしく、真剣な顔つきの善法寺先生に足首を診て貰っていた。
「あの、竹谷…代理?腕、赤くなってるし冷やさないと…」
「ん?こんなの唾付けときゃ治るだろ」
竹谷代理は笑みをこぼしながら腕捲りしたワイシャツの袖からのぞく自分の前腕を改めてしげしげと眺めた。七松係長のように細かいことは気にしない豪快なタイプに見えて、実は気にするタイプかもしれない。
それでも「氷、貰ってきましょうか?」という私を竹谷代理は笑顔で制して、「よくあることだしな」と快活そうな笑みを見せる。なるほど、これが噂に聞くタケメンスマイルか、とちょっと体温が上がる感じがした。でも私の目の前には竹谷代理本人がまだ気付いていない難題が横たわっている。
「すみません、ワイシャツの胸辺りを汚しちゃいました」
上手い具合にネクタイで隠れてはいるけど、ここは自己申告をしておくに限る。ペロリとネクタイをめくって自分の胸元を確認した竹谷代理は、これは弱ったとでもいうかのようにその太い眉を思いっきり引き下げた。
魚拓ならぬ顔拓って感じ?眉目鼻口がソレだと分かる配置で、竹谷代理のワイシャツにくっきりと跡が付いている。何だかトホホな感じ。目まで付いているのは腕を引っ張られた時の勢いで眼鏡が吹っ飛んだからだろう。
「……いや…仕方がない、だろ?!」
そして私をまじまじと見つめてきた。
「七紙さん、だっけ?もうちょっと化粧薄い方がいいんじゃね?」
そんなこと自分でもよく分かってるし。大体余計なお世話だし。彼女いるなら直接説明してあげてもいいかなと思ったけど、まあいいや、もう。
「じゃあな、気ぃつけろよ」
私が少しムッとしたのには全く気付かずに無駄に爽やかな笑みだけを残して、竹谷代理は平らげたカレーと定食のお皿を下げると食堂を出ていった。