昼休みは不運の始まり 2
『危ないっ!』
全ての物がスローモーションのように見えるとはこのことか、そう思った。私はなす術もなく呆気に取られて、ただその場に立ち尽くしていた。
次の瞬間何が起こったのかよく分からなかった。丼の赤い拉麺吉祥模様が間近に迫ってハッキリ見えたことまではよく覚えている。
でも今、私の目の前は真っ暗で温かくて、微かに漂う独特の臭いが鼻をつく。
ああ、私…どうなっちゃったんだろう。確か強く引っ張られて、そして…。
「ぼさっと突っ立ってないで避けなきゃダメだろーが?!」
頭上からハリのいい声が降ってきて、そこで一気に私の意識はこちらへ戻った。そうだっ、ラーメンがこっちに飛んできてっ!そして私っ!
振り返って辺りの様子を見ようとしたけど何かにガッチリと頭を固定されていて動かせない。私は青くなった。後頭部にある温かい感触に。額から感じるこの規則正しく前後する柔らかな温もりに。これって、やっぱり…人間。それも男の人?!
「うおっ、ワリい、ワリい!」
慌てた私がガサゴソともがいたせいか、私の頭上で笑う彼は力を緩めてくれた。こっ、こここ、こんなに人が多い食堂で、だっだっ抱き締められるなんてっ!恥ずかしいにも程があるっ!
瞬時に「八神さんな私なら良かったのに」なんてヨコシマな考えが脳裏に浮かぶ。もがいたせいもあって彼の白いワイシャツの胸辺りが黒とベージュと赤で汚れてしまっていた、もちろん私の化粧で。幸いネクタイだけは彼があの直前まで食事の際に肩にかけてたためか汚れなかったようだった。
視界の端から床に転がった丼とその中身の残骸が目に飛び込んでくる。何がどうなったやら、もう恥ずかしくて顔を上げられない。ていうか二度と食堂に来られないくらい恥ずかしい。
「七紙さん、大丈夫?!竹谷代理、ありがとうございました!」
富松さんの声。そうか、この少し動物臭らしきものが漂う胸板の持ち主は、竹谷代理というのか…何の代理か不明だけど。どうしよう、お礼は言わなくちゃ、でも。
「スゴいですねっ!七紙さんに熱い汁が掛からないよう庇いながらトレーで丼を叩き落とすなんて!」
いやあ、ハハハ、なんて頭でも掻いているのか、やたらボリボリという音が聞こえた。
そっと振り返ると飛び散ったラーメンがかかったのか、善法寺先生が太股や脛を拭いている。『ごめんなさい』と目で訴えかけると、「いやあ、頭から被らなかっただけマシだよ」と小声で囁いた、ような唇の動きだった。つくづく先生が気の毒になる。
だが、いつまでもこうして下を向いたまま顔を逸らしてはいられない。私は感謝を伝えるべく意を決して正面を向いた。
「あっ、ありがとうございましたっ」
見上げればその『竹谷代理』は、これでもかというくらい無駄に爽やかな笑みを顔一面に浮かべた、傷んだパサパサの髪の毛が好き勝手に跳ねた、太い眉毛も男らしい陽気な好青年といった感じの人だった。イケ…てなくもない、かな?うん。いや、結構格好イイと思う、たぶん。
てことは富松さんがいった通りなら、端からはこれ以上ないくらい格好良く見えたに違いない。私を引き寄せて庇いながらトレーを盾にして熱々の丼を弾き返したのだから。そういや、女子社員のキャーなんて黄色い声が聞こえたような気がする。