総務部に来ました 1
食満係長の名が出ると藤内美ちゃんは蒼白になり、私を残してそそくさと立ち去った。
「あっ…えっと、七紙奈々子さん、でしたよね」
確か営業の飲み会でお会いしましたっけ、と富松さんはにこやかな顔をした。何となくしっかりしてそうな彼と直接話をすれば「富松くん」ではなく「富松さん」と自然に口にしていた。
「はい、確か同期の方をお迎えに来られてたんでしたっけ?」
途端に富松さんは眉を下げ今までの明るい表情にやるせない翳りが落ちた。
「ええ…そう、でしたね…」
またやってしまったと思うがもう遅い。焦っていたら富松さんは直ぐに気持ちを切り替えたらしい。
「僕…私は富松作兵衛です、宜しくお願いします」
「こちらこそ、宜しくおねが…」といいながら、出た!会長の名前コレクション、なんてことを考えていた。
「まだ仮配属なんですか?」
ええ、たぶん、と答える。
富松さんは「ここは新入社員も多いので余り緊張しないで下さいね」と笑顔になる。ハンサム?とかじゃないけど彼は男前というか男気のあるタイプなんだろうと思った。
「ただ…今年の奴らはキョーレツなのが多いんで…」
それを聞いた私が興味津々の顔をしたらしい。富松さんは苦笑した。
「ナメクジがペットの男と、なんとあの福富貿易の御曹司と、あともう一人は影の薄いのなんです」
富松さんの中では超お金持ちより、ゲテモノペットの飼い主の方が特記事項なんだろう。女子なら逆だろうなと思った。ふと藤内美ちゃんがそそくさと帰って行ったのを思い出す。
「あの…食満係長って何かあるというか、少し変わった方なんですか?」
一応、『少し』とつけて配慮する。大体彼女が顔色を変えて逃げるだなんて尋常じゃない。
すると富松さんは一瞬口にするのを躊躇った後、辺りをキョロキョロと見回してから小声になった。
「ここだけの話ですが…」
私はゴクリと唾を飲み込んだ。
「面食いなんです」
何だ、普通の男じゃない。そう思った矢先。
「いや、並じゃないんです。この子と思ったら猛攻をかけるんですが…」
もう、見ている方がヒキまくりな程です、と目を伏せた。まさか…ス、ストーカーレベル?!確か仙子先輩と喜八ちゃんが大変だったと聞いたけど。
「その時は大したことなかったんです。だって二人とも……強いでしょ?」
ああ、と私も納得する。
「じゃ…今は藤内美ちゃんが?」
富松さんは黙って目を伏せ溜め息を吐いた。私も深くは聞くまい。すると富松さんは慈愛に満ちた優しい微笑みを浮かべた。
「七紙さんなら心配しなくたって大丈夫ですよ」
……富松さん、お気遣いどうもアリガトウ。ええ、私なら係長にロックオンされることはないと思います、たぶん素に戻っても。
そんなやり取りをするうちに、向こうから例のイケメン係長、今、富松さんから話を聞いちゃったから残念なイケメンに格下げになったけど。その食満係長が歩いてきた。
「おはようございますっ」と富松さんは礼儀正しく背中を折り曲げるので私もそれに習う。
「おぅー、おはよう」
私が頭を上げると食満係長はその場に固まった。次の瞬間ワンテンポ遅れて台詞が飛び出す。
「あぁ、君だね。七紙さんは。立花さんから話は聞いてるよ」
とにこやかになる。久しぶりのこの反応が新鮮で楽しい。私は必殺ホラースマイルと呼ばれる笑顔で食満係長に会釈をした。
「宜しくお願いいたします」
「うちは力仕事も多いから頑張ってね」
食満係長は極力私と目を合わせないようにして、「細かい仕事は富松に従って下さい」とだけいうと、そそくさと自分のデスクへ向かった。私は見たものが石になるギリシャ神話の怪物かよ?!
だが、この調子ではどうやら富松さんは新入社員の一年の他に、私の世話まで押し付けられたらしい。
「じゃ入りましょう」
富松さんは「また、厄介なのが来た」なんて嫌そうな素振りは少しもみせず、私に部屋に入るよう促した。
その部屋には一種独特の空気が漂っていた。野菜売り場のバックヤードの臭い、バターや焼き菓子の臭い、みたらし団子や煎餅など餅菓子系の焼けた臭い、得体の知れない生臭い臭い、それらが渾然一体となって漂っている。私の一番目の仕事は、まず部屋の空気を入れ換えることだった。
「窓、開けましょうね」
私は有無を言わさずそういうと大窓のロックを外した。少しひんやりとした透明感のある朝の空気が、一気に部屋の中へと吹き込んでくる。大通りを走る車のクラクションが突如大きくなって、朝独特の気忙しさが感じられた。
もちろん駄目と言われようと窓は開けるつもりだった。惜しむらくはオフィスビルの構造上全開にはならないことか。それでも気分が晴れるから私は廊下側のドアも開けて部屋に風を通す。