それはヒドイ 1
「奈々子さん、おはようございます」
相変わらず早朝から折り目正しく凛とした藤内美ちゃんが立花先輩の物置兼プロジェクト控室にいる。
それを見て一緒に入ろうとした鉢屋さんは、「女子限定」だと立花先輩に追い出され渋々人事部へと戻っていった。でも鉢屋さんのことだから女装して来かねない。油断は禁物だ。
「私、今日からどこへ行くんですか?」
金曜日起点だと中途半端だなと思いながら藤内美ちゃんに尋ねた。
「一応、食満係長のいる「総務だ」」
あ、また立花先輩ってば藤内美ちゃんに被ってるし。総務かあ、確かあのオッサン達に追いかけられたとき後始末に来てくれたのは、総務の人だよね。涼しい感じのイケメンだったことだけは覚えている。やけに私のことをチラ見してたのが気になったけど。でも彼が会った私は八神さんだった私であって、七紙さんの私ではない。あー、なんだか面倒。
「一緒に行きましょうね」と藤内美ちゃんは柔らかく表情を崩す。そしてロッカーへ取りに行くものがあるのですぐ戻ります、と出ていった。
金色に輝く朝の光が隣のビルに反射して部屋の中に射しこんでくる。そして気だるい私と立花先輩を明るく映し出した。
そういえば私は大切なことを聞き忘れていた。
「あの…先輩?昨日鉢屋さんから聞いたんですが…」
私を鉢屋さん達との連絡役にしたいと云われたそうですね…、私は立花先輩を真っ直ぐに見詰めた。先輩はゆっくりと頷いた。端正な面立ちにビルから反射した朝日が当たる。
「嫌でなければ、な」
立花先輩の口から穏やかな声音が溢れる。どうやら鉢屋さんは嘘を吐いていなかったらしいけど、でも、どうして?確か先輩はあの人たちは敵でも味方でもないと仰ってましたよね。
「少し状況が変わったのだ。毒田の連中も次は何をしてくるか解らん。赤髭の親会社が独笹珈琲と手を組んだとしたら面倒だしな。だから今後は男手が要る可能性が高くなった」
昨日は大したことがないように口ぶりだったのに。
「まだ独笹珈琲の上が出てきていないから何ともいえんが…少なくとも赤髭一人なら奈々子は心配するな」
私が調べてくるから、と先輩は妖しい笑みをこぼした。グロスを塗られた薄く形の良い唇が艶やかに光った。
「鉢屋達にはまだ伝えていないが、不穏な動きのファンドがいる。私はそちらの方が気になるな」
私は想像したより深刻な事態に溜め息を吐いた。初めは社内の風紀調査が私の仕事だったのに。産業何とかだって社内限定で…。そんな私を見て立花先輩は目を細める。
「死傷者が出たことはない、今迄はな」と続けた。そして言葉を失う私に「事実は意外とつまらないことだったりするのだぞ?」と余裕の笑みを浮かべる。
「それにしても…どうして尾浜さんなんですか?」
「まず鉢屋より面割れしていないこと。それにヤツは元々長期の潜入や潜伏が得意だったからだな」
「それに奈々子も二つの顔を持ってるだろう?」と先輩はよく手入れされた爪の美しい人差し指を立てる。ああ、私が選ばれたのはそういう理由だったんですか。
「…奈々子は、尾浜が生理的に苦手なタイプか?ならば無理強いはしないが…」
「…いえ…それほど嫌では…」
「そうか、ならよかった。残念ながら鉢屋は目立ちすぎるのだ。だがどうしてもというなら…」
ここ数日の出来事が走馬灯のように蘇る。先輩の言葉が耳の端を通って私の意識を素通りしていく。一昨日の帰り道、名残惜しそうに別れた尾浜さん。文字通り彼が本気かどうかは分からないけど。でもこの次二人きりで会うことになったら、私はどんな顔をして会えばいいやら想像もつかない。どうする、どうする、どうする……。
そんなことがぐるぐると頭を巡って口ごもる私に、先輩が横目で意味深な視線を送ってきた。
「…好きな男でも出来たか?」
『好きな男』
その言葉に尾浜さんの姿が消え、一瞬、久々知主任の顔が脳裏をよぎった。と同時に昨日感じた切ない気持ちも湧き上がる。そして退社した私を探す久々知主任の切羽詰まった声。だけど私は…。