逃避行 3


「よし、行くか」
鉢屋さんが立ち上がった。コーヒーカップを下げて戻ると、いきなり鉢屋さんは肩を抱き寄せてきた。吃驚して身を遠ざけようとすると耳元で囁く。あの…耳に息がかかるんですが。
「このまま駅まで行くぞ。奈々子は振り返るな」
誰です、いえどこの人ですか?
「分からない。同業者かもしれないし只の素人かもしれない。だが、さっきからずっと私たちを見ていた」
だとしても直ぐに感づかれるようなヤツは尾行も下手なんじゃ?鉢屋さんが一緒ならその人を撒くのなんて楽勝でしょう?
「わざと気付くようにして牽制したり圧力をかける場合もあるんだ」
だがアイツはヘボだな。とガラスに映る赤毛の髭男を顎で指した。
「まあ、本人も知らずにやらされている場合もあるだろうしな」と何かを取り出してボタンを押した。
「よし、と」
私の方を向いて「撮ったぞ」と一言。
鉢屋さんは少し思案する。
「アイツ…確か…」独り言を言うと「駅まで行くぞ」とこちらを向いた。鉢屋さんの顔が近くて嫌でも意識してしまう。私たちは肩を寄せて歩くが、このいちゃつきっぷりが非常に恥ずかしい。今日は美容室にいったため、退社時間のピークからは外れているのが幸いだった。
「あの人は?誰か思い出せたんですか?」
「今日、斉藤さんのサロンに行ったろ?あの店の入っているビルを建設するとき揉めてな。それをうちの会長が助けたんだ」
あの…結構、株式会社シノビって敵が多いんですね。
「いやそうじゃない。回りに理不尽な奴等が多いんだ」
そうかな、と思いながら尋ねる。ちなみにどこと揉めたんですか?
「確か臼田建設だった」
敵の敵は味方っていうだろ?だからシノビと敵対した連中同士で手を組むことがあるんだ、鉢屋さんはそう言うと真っ直ぐ前を向いた。
鉢屋さんのすっきりとした顎のラインが目に入る。女子社員に人気があるのも頷ける。でも肩にあった掌がいつの間にか段々と下がって、然り気無くお尻に回されているのが気になった。


駅まで来たが、先程の髭のオッサンは私でも分かるほどドタバタと後を付けてきていた。もしかして素人?と思うほど慣れてないのがよく分かる。でもそれだけに、そんな人材を使う背後の存在が不気味に感じられた。
「しつこいな」
鉢屋さんが段々と苛々とした表情になる。確かにしつこいかも。
「悪いが何があっても驚くなよ」
緊張している私は「は…はい」とかすれ声で返事をした。

鉢屋さんは駅を通り抜け、その先をどんどん歩き続ける。駅周辺の賑やかなエリアを過ぎると多少の飲み屋がある。それも抜けると色とりどりのネオンが輝く薄暗い怪しげな道に出る。それでもまだあのオッサンは付いてきている。
行き交う人々はどれも肩を寄せ合うか、逆に不自然なほど距離を取って歩く男女ばかりになってきた。ご休憩○○円、ご宿泊○○円、と書かれた卑猥な色合いの看板が、暗がりにぽつりぽつりと浮かんで嫌でも目についしまう。鉢屋さんは何を考えているのだろう。まさかほとぼりが冷めるまでその間部屋で…。いや、それはないよね、と妙な考えを打ち消した。

突然、鉢屋さんは舌打ちをして私の腰をぐいと強引に引き寄せると、いきなり向きを変えた。そしてすぐ脇にある電飾の付いた建物の狭い入口からいきなり中へと滑り込んだ。もはや私の心臓は口から飛び出そうになる程早鐘を打っている。
「奈々子、こっちだっ!」
照明を落としたロビーで部屋を選んでいたカップルが、突然飛び込んできた私たちに驚いて壁際へ飛び退いた。その脇を鉢屋さんと鉢屋さんに手を引かれた私が全速力で駆け抜ける。そしてそのままホテルの裏口から外へと一気に走り抜けた。

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