逃避行 1
「七紙さん?」
呼びかけられて立ち止まるが、はたと気付く。しまった。振り返ったらバレるじゃん。第一この声は女性じゃないし尾浜さんでもない。
「あの…どちらさ…」
「…ったく、声でわからないのか?鉢屋だよ、鉢屋三郎」
言われて振り返る。確かに立っていたのは鉢屋さんだった。
ヤツは私を上から下まで舐めるように眺めると開口一番にいった。
「ふーん、意外に悪くないな」
何だよ、お前もう。
「私、帰りますから」
「まあまあ、ここで会ったのも何かの縁だしお茶でも飲んでいかないか?」
「えー鉢屋さんは微妙」
思わず口に出していた。鉢屋さんは片方の眉だけ下げながら私を値踏みするような目付きになる。
「別に30分くらいいいだろう?私は聞きたいことがあるんだ」
ニヤリと厭な笑みを溢した。この笑い方はいつ見ても寒気がする。別に行ってもいいけど口を滑らせてまた余計なことを言ってしまわないか心配だった。
「返事がないのはOKってことだな」
と鉢屋さんは目の前にある店に入ろうとする。私が突っ立っていると、ご丁寧にドアの所でこちらに振り返った。鉢屋さんが後ろを向いている隙に帰ろうとしたのを、見破られたのかとドキリとした。
窓際から見えない、でも店内は見渡せる席につく。意外なことに私に飲みたいものを尋ねると、鉢屋さんはさっさと買いに行って戻ってきた。
ハンサムかどうかは好みが分かれるだろうけど、鉢屋さんって雰囲気は非常に格好いい。この会社の男性の中じゃ一番オシャレだと思う。どこのブランドか分からないけど紺色の細身のスーツに色付きのワイシャツ。趣味のいいネクタイ。でも人事部なのに白以外のシャツってチャレンジャーだと思う。でも私服にも気を使っているのだろうとこのスーツ姿からは想像させられた。
「ありがとうございます」と小銭を渡そうとしたら鉢屋さんは拒否する。プリペイドカードで買うから面倒くさいらしい。「いいからしまえ」というので小銭は財布に戻した。
「で、何です?聞きたいことって?」
「ん、あ?忘れた」
はあ?何ですと?
「いやな、勘右衛門のこと、どう思ってるかと気になってな」
鉢屋さんは頬杖をついてニッと口角を持ち上げる。まさかもう昨日のことを鉢屋さんが嗅ぎつけたのか、はたまた尾浜さんが自らバラしたのか。
「そりゃまた…随分ダイレクトですね」
回りくどいの面倒くせーだろ、それにアイツ同期だしな、と鉢屋さんはカップからコーヒーを一口飲んだ。
「んー、別に好きでも嫌いでもないっていうか、何言われても今イチ信用ならないっていうか…。モテるんだろうなあとは思いますけど」
「あー確かにアイツ要領いいからな」
「だって、聞いた話じゃ、いつも派手でキレイな子連れてるらしいから」
「そりゃまあ、仕事だからな。立花先輩みたいなもんだろ?」
その「尾浜さん」と、この「立花先輩」とに、どんな関係があるのかよく分かりませんが。まあいいけど。
「後一押しつってたけど、こんなに信用されてないとはな。こりゃ勘ちゃんも厳しいな」と鉢屋さんは独りニヤニヤとする。
「だって隙あらばって感じで油断ならないもの」
「それは違う。奈々子、お前が隙だらけなんだ」
違うし。尾浜さんが絶妙のタイミングで現れるからだし。ていうか鉢屋さんにお前呼ばわりされる筋合いなんかないし。
「あ、悪いな、スマン」
でもお前な、俺のどん臭い妹見てるみたいで苛々すんだよ、なんて言われてしまった。悪かったな。
「立花先輩は優しいか?」
「はい、良くして頂いてますよ」
そうか、よかったな、と鉢屋さんは優しい目をした。天邪鬼を気取っているけど本当は優しい人なのかもしれない。あくまでも推測だけど。