明日異動します


「えっ、もう移っちゃうんですか?」
二郭君が吃驚した声を出す。池田君は片眉を上げてこちらを見ただけだった。ニヒルなヤツだな、キミは。可愛い顔してるくせに。
「今回はスポットだったしね」
「そうだったんですか」
「僕は別件で出ていて二郭はその補助だったから、七紙さんがヘルプに入ったのは外出の人手がなかったからですかね」
私は池田くんに頷きながら二人のデスクにコーヒーを置いた。
「何かあったら社内メールで連絡下さいね」
ないとは思うけど。
「ミスがあったら嫌でも連絡が行きますよ、主任から」
だよね。
「ところで。久々知主任、午後から急に機嫌が良くなったけど何かあったんですか?」
池田くん鋭い。大当たりだよ。理由は言えないけど。
「さあ、解決策を見付けたからじゃない?」
「ですね…たぶん」とカップを傾ける池田君は絵になるなあ。そのふっくらとした唇とカップを持つきれいな手に、どうしても目が行ってしまう。
「また開発課に来た日にはヨロシクね」
「ヨロシクされてあげますよ」なんて素直じゃないんだから、もう。可愛いから許すって感じ。
この課は特に立花先輩から調べろとは言われていないけど、一応報告書は作ることにした。といっても、特に不審な点はなく、懸念された項目に該当者なしって内容になるだろう。


商品開発課を去る前に自分が使ったものを整頓をする。残したファイルは誰が見ても分かるようにバックアップを取ってリネームした。紙資料はファイルに綴じ所定のキャビネットへ入れた。私が使ったPCは予備機だから個人アドレスのメールは大したこと書いてないしそのまま残しておく。どのみち課長にBCCで入れてあるしね。

今何時かと時計を見る。このまったりした空気はそろそろ退社しても良さそうな感じだろうか。でも久々知主任は黙々と何かを書いている。正確にはキーを打っているんだけど。
その真剣な横顔が、警備員に扮した男に当て身を食らわせ私の手を掴んで連れ出してくれた、あの夜の「久々知さん」と重なった。路地裏で初めて久々知さんを間近で見た時の驚きと、そしてときめきを思い出す。久々知さんのはにかんだような微笑みと少しだけ紅潮した頬。久々知さんは色白だったから、それが余計に目立った。
そういえば立花先輩の横槍が入ったせいで、八神さんがあの夜の久々知さんに言いそびれたことを思い出した。

「お先に失礼します」
土井課長は席を外しているからまた明日にでも改めて挨拶をすることにしよう。私は課内の人に一言ずつ感謝の意を伝え、最後に久々知主任の前に立った。
「あの…短い間でしたが、お世話になりありがとうございました」
久々知主任は顔を上げた。大きな目でじっと見つめられる。その瞳にはもう怒りや苛立ちの色はない。
「ああ、こちらこそお世話になったね」
部署が決まらない内はまたお願いするかもしれないから、と主任は軽く笑みを浮かべた。それはあの日の久々知さんそのものだった。
「こちらに今回の資料一式まとめてあります。プレゼンに使わないものも含めて…。それぞれフォルダ分けしてありますので」
ああ、ありがとう、と久々知主任は特に興味を持つでもなくそれを受け取った。そのメモリーには二ツ折にした付箋紙を付けてある。注意深い久々知主任のことだから、たぶん中も見てくれることだろう。
「それでは失礼します」
私は部屋を出て真の所属先であるプロジェクト控室に向かった。

付箋紙にはこう書いた。

 忘れててすみません
 八神さんからの伝言です


 助けて下さってありがとう



私が非常階段の鉄扉を閉め終わると、外の廊下をバタバタと走る音が聞こえた。
「七紙さん!七紙さん!」
久々知主任の声。私は靴音を立てないようにそっと階段を上がっていった。

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