待ち合わせ 4
時計を見れば大した会話をしていないのに時間だけは経っている。でもあまり遅くなるとマズいような気がする、大人の事情で色々と。なので私は尾浜さんに声をかけた。
「尾浜さん、そろそろ行きませんか?」
「そうだね」
尾浜さんが大将に目配せすると、サラサラストレート君が黒髪を揺らしながら伝票を持ってきてくれた。でも可愛い彼は尾浜さんの影になって間近で見ることができない。クソッわざとだな、わざとなんだな。尾浜さん、酷い。
適当に半分ほどだろうと見当をつけた金額を渡せば、何とバッチリだった。貸し借りなしで一安心する。もっとも尾浜さんは微妙な顔をしてたけどね。
それに美味しい割には思ったほど高くなかったので、ボトルを入れるほど鉢屋さんと頻繁に通う理由がよく分かった。その上、会社からも近い。でも難点は近い分、会社の人に遭遇する率が高いということか。まあ、私以外の人には大して問題じゃないんだろうけど。ただし会社や上司の文句を言って日頃のストレスを発散するには厳しいよね。
暗がりで分かり辛いけど尾浜さんは大して飲んでいないからほとんど赤くなっていなかった。もちろん私も飲んでいないからシラフだ。
「じゃ、尾浜さん。今日は色々とありがとうございました。明日から頑張ります」
店の前でそういうと尾浜さんは「無理して頑張らなくてもいいんだよ」なんて明るい笑顔で私に言う。人事部なのにそんなこと。
「程々にね、奈々子ちゃん。身体壊したって意味ないんだし」
「はい……あの、コレは洗って返しますので」
汚れたハンカチを握りしめながら頭を下げると、尾浜さんは「いつでもいいよ」と朗らかな声音で応える。このハンカチを差し出された時の私は、今みたいな展開、結果尾浜さんと飲みに行くことになるなんて思いもよらなかっただろう。
「私はこっちの道なので」と通りを指しながら尾浜さんにいうと、「じゃ駅まで一緒に帰ろう」なんて言われてしまった。
会社の前を通ると残業の人がいるから…と渋れば、「じゃっ、裏道通ろうか」と上機嫌になる。あ、墓穴掘ったかも。そんな私に尾浜さんは真剣な顔つきになった。
「また襲われたらどうするのさ」
「まあ、それはそうですけど…」
そう応えつつ、もしかして尾浜さんも同じくらい危険なんじゃないの?なんて考えが浮かんだ。
なので私は尾浜さんから少しだけ距離を取りつつその横を歩く。私に合わせてゆっくりと歩いてくれているのが分かった。『会話が途切れたら私死亡フラグ』とばかりに、妙な空白が出来ないよう気を付けて、目一杯話をし続けた。
「あ、そうだ。奈々子ちゃん」
突然、尾浜さんが立ち止まった。つられた私も足を止めて振り返る。うっかりしていた。
ふいに伸ばされた尾浜さんの両腕が私を捕らえて引き寄せる。あっと思った時にはもう尾浜さんのネクタイが目の前だった。刹那、尾浜さんの胸に両掌をついたから辛うじて密着することだけは免れた。
心臓が破裂しそうな勢いで血液を送り出す。頭から湯気でも出そうなほど暑い。でもこんな時に限って妙に冷めた私の脳は、クリオネの捕食シーンを思い出させてくれるのが恨めしい。
背中に回された腕が温かくて心地よい。目蓋を閉じてこのまま流されてしまいそうになる。目の前のスーツからは尾浜さんの匂いがした。
そっと頬に寄せられた掌の温もりを感じて、尾浜さんを見上げれば、彼もじっと私を見つめている。そして少し首を傾げると、そのままゆっくり近づいてくる。ああ、もう何でもいいや、と目を閉じようとしたその瞬間。
尾浜さんの瞳が周りの様子を窺うようにちらりと動く。そして残念そうに眉を下げると、尾浜さんは私の上腕を掴んでゆっくりと自分の胸から引き離した。
「また今度……ね」
恐らく男性だろう。向かい側の歩道には焦って走る訳でもなく、てくてくと次第に遠ざかっていく人影が一つ。
でも道行く人のお蔭で、流されそうになっていた私は危ういところで助かったのだ。それにしても更に微妙になってしまったこの雰囲気に、ここから走って逃げ出してしまいたい。いや「今日はありがとうございました」と言葉だけ残して今すぐ駅まで駆け出そうか。そんなことを思い巡らせていると、尾浜さんが声を掛けてきた、前を向いたままで。
「行こっか」
「はい」と逃げるタイミングを逸した私が掠れ声で頷くと、尾浜さんは何事もなかったように歩き出す。それを見てほっと安心した私は彼の後に続いた。
斜め後ろから尾浜さんの横顔を盗み見るが、彼の表情はいつもと変わらない。さっきのことなど虫刺され程度にしか思っていないのだろう。やっぱり立花先輩の言った通り、ただ単に『据え膳もお残ししない』だけの人なんだ。そう思うと少し切なかった。
「ん?どうかしたの?」
私の視線に気付いた尾浜さんが振り返った。ドキリとして「何でもないです」と否定する声が上擦る。するとクスと笑った尾浜さんは私の手を捕まえて握りしめると、駅に向かって歩き始めた。繋いだ掌は温かく見かけよりも大きくて、所々に硬い豆が感じられた。