天気は雨のち微妙 3
「やっぱり、この方が俺の好みだな」
されるがままになっていた私は一気に現実へと引き戻された。ちょっ、今何か言いませんでした?ヤバイこと言ってませんか?!音を立てて血の気が引いた、ような気がした。
「まさか奈々子ちゃん…今さら警戒してるワケ?まったく遅過ぎだよ」
相変わらず抜けてるよねー、クスリと笑いながら私の顎を持ち上げる。私より背の高い尾浜さんを涙で潤んだ瞳の私は雰囲気たっぷりに見上げる形になる。これってアノ時の態勢だよね、なんて呑気に考えてる場合じゃない。どうする奈々子!どうする私!
「あの…尾浜さん」
「……黙って」
そう囁きながら尾浜さんは私の唇に自分の人差し指を軽く押し当てた。息遣いを感じるほど近くから、軽く首を傾けて真剣な眼差しで私の瞳を覗きこむ。形の良い唇が少しだけ開かれていてセクシーだ。ここで瞼を閉じてしまえば全てが終わるんだろうなあ、なんて考えるけど。
「こんなトコじゃ嫌です」
口を突いて出たのは、自分で言うのも吃驚レベルのベタな台詞。ここ以外だったらいいのかよ!って突っ込まれそう。ていうか尾浜さんのことだから言葉尻を掴んで、「じゃ、今からホテル行こっか?」なんてすっごくイイ笑顔になりそう。いやいやいや、まだ就業中だから。あ…違う、就業中とかいう問題じゃないし。
「私、この会社に入って間がないですし…」
「皆に隠れてこっそりと会う。そのスリルがいいんだよね」
だって燃えるでしょ?とスッゴく近い距離から目を細めて囁かれる。真の私が何の役目でこの会社に入ったか知らんのかい、この男は?
「じゃあさ、いっそ『八神さん』と使い分けてみるのはどう?」
私は目を見開いた。確か尾浜さんも鉢屋さんもあの時どんなに立花先輩が呼んでも、とうとう最後まで出てこなかったのに。尾浜さんは一体どこまで知っているんだろう、そう思うとぞくりと肌が粟立った。
「俺と居るときは八神さんのルックスの奈々子ちゃんだと嬉しいんだけどね」
一瞬大きく心臓が跳ねる。けど何となく微妙な感じが拭えない。いや、そもそも本来の私が八神さんである七紙奈々子なんですよ。あれ、意味不明。それより何か今、さらっと重要なことをいってませんでしたか、と思ったけど、薮蛇になっても困るから聞こえなかったことにした。
「どう?今日の分の仕事終わりそう?結構進んだんでしょ?」
「ええ…まあ、はい」
どうして尾浜さんが知ってるのと目を丸くすれば、『俺たち』の仕事を考えてみなよ、と口角を上げる。尾浜さんは私から少し離れると私の頭にそっと手を置いた。
「じゃあ今日の帰り、甘いものでも食べに行こっか」
ご飯の前に?と思ったけど、今日はちょっと食べたいかな、疲れたし。
「久々知はさ、たぶん奈々子ちゃんが嫌いだからキツく当たるんじゃないよ。むしろ…」
尾浜さんが肝心なことを言いかけたとき、コツコツと階段を降りるヒールの音が響いてきた。尾浜さんはちらと上方に視線を送ったけど、その眼差しは知的で抜け目のない感じが滲み出ていた。
「じゃね。後でメールするよ」
尾浜さんは軽く片手を上げる。そして音もなく非常階段の鉄扉を開けると、その隙間から姿を消した。後に残されたのは呆然とする私一人。
「そうだ!化粧直さなきゃ」
私は慌てて階段を登って通称、立花先輩の物置部屋へと向かった。着いたら内線電話で、心配しているであろう二廓君に『ロッカーで少し休んでから戻ります』と伝えよう。
登りながら、尾浜さんはどこの店へ行くのだろう、とぼんやり考える。久々知主任のことは頭からすっかり消えていた。