遠出しました 5
九丁目さんのアドバイス?は効果絶大で作業はサクサクと進む。土井課長と久々知主任が戻る頃にはほとんど終わるだろう。書類キャビネットは残り一つというところまで終わった。その後は抜き出した書類を取捨選択するだけだ。
「あの…よかったら一息入れませんか」
「いいですねー」と応える。眼鏡は眼球の乾燥を防ぐというけれど、流石に疲れ目でドライアイになりそう。私は目薬を差すとティッシュで顔を押さえた。その時悲劇が。
睫毛取れたあああ!
もう、どんだけ適当に付けてたんだよ、私。今朝は早かったから眠いのもあったけどさ。どうしよう、大きい方の化粧ポーチは先輩の物置(という名の倉庫)に置いてきちゃったし!
こうなると仕方がない。私は意を決してもう片方の睫毛に手をかけた。もうリムーバーだの何だのいってらんない。片方だけモッサリフッサリの方が変だ。ちょっと地味な顔になるけど、まあいい。ぴりりと剥がして私は鏡を見ながら跡を整えた。
コーヒーを持って戻ってきた九丁目さんが、ぽかんと口を開けて私を見つめている。
「あ、す、すみません。やっぱり変ですよね」
もう何と言って誤魔化そうかと苦笑いが出てしまう。
「で…でもその方が自然でいいかなって…」
そうですか、と答えるのが精一杯で私はうつむいた。なぜだか九丁目さんは嬉しそうに見えて、それもなんだか不審。ま、確かにこの睫毛付けると普段より目が小さく見えてたけどさ。
「とにかく冷めない内にどうぞ」とコーヒーを勧められた。微妙に会話がよそよそしい空間はいたたまれない。サッサと飲んで作業を終わらせてしまおう。
「よし」と私が立ち上がったので九丁目さんも立ち上がる。何となく微妙にいい雰囲気、ていうか一方的にいい雰囲気。こんな微妙な空間に放り込まれるなら、どうせなら…どうせなら…久々知主任か土井課長がよかったのに!下心があるとどうも上手くいかない。
そんなことを考えてぼんやりしていたせいか、書類を渡そうと差し出した指が、うっかり九丁目さんの手に触れてしまった。
途端に九丁目さんは茹で蛸みたいに真っ赤になる。ある意味純情なんだろうけど、やっぱり微妙。今時中学生でも赤面しないよ。どんだけ慣れてないんだか。
しかも残念なことにこれ以降、彼の態度がぎこちなくなって余計にギクシャクしてしまった。お願い!頼むから普通にしててほしい。
そんな祈るような気持ちでいると、廊下から騒がしい声が聞こえてきた。やっと主任たちが戻ってきてくれたんだ。この居たたまれない空間ともお別れだとホッとした。
「お疲れ様、はかどってるかな?」
「あ、課長お帰りなさい」
変な返しだと思いつつ、作業を続けながら課長たちに会釈をした。でも何か皆の態度が変。そこで思い当たった。
「あー、睫毛取っちゃいましたもんね」
「女の子は大変だよね」と課長に優しく微笑まれてしまった。何ですか?その笑いは。
その時、後頭部に突き刺さるような視線を感じて、私は振り返った。そこには大きな目で瞬きもせず、じっと私をガン見する久々知主任が立っている。
「あの…」怖くてそれ以上の言葉が続かない。
「あ…後少し…いえ、小一時間で終わらせます」
なおも穴の開くほど見つめてくる久々知主任に焦る私は、しどろもどろで進展状況を伝えるのが関の山だ。勘弁してください、主任。目ジカラ駆使するのはヤメテ!
「七紙さんって…似てるね」
誰にっ?!
「八神さん」
瞬時に脳内で火花が散った。思考回路が焼き切れる。そんな私に久々知主任は畳み掛ける。
「いやさ、眼鏡かけてない方がいいなと思って。だって…なくたってよく見えるんでしょ?」
という久々知主任の指差した先には私の眼鏡がっ!
再び目の前が暗くなる。立花先輩の天女のような鬼の微笑みが浮かぶ。終わった。七紙奈々子は終わった。だいたい伊達眼鏡なんだから、かけ忘れるってーの。
「あ、近くは無くても大丈夫なんです」なんて取り繕ってはみたものの、廊下から入ってきた課長へ真っ先に声をかけたのはいかんともし難い。
でも今更考えたって、どうしようもない。何事もなかったようにサクッと眼鏡を装着すると、私は作業に没頭した。私ってもしかしたら、いやもしかしなくても、こんなミスが多いような気がする。てか、多いよ、絶体。
横から久々知主任が「八神さんがー」とか何とかいってたけど、仕事に関係ないみたいだったから、適当に生返事しておいた。