帰りはコワイ 2
恐る恐る振り返れば警備室の人と同じ丸い真っ黒のサングラスをかけた男が立っている。もうダメ、私は殺される!、殺されなくても×××なことや×××なことをされて、最後は×××てしまうんだ!
「いやいやいや、そこまでしないから」
その男はゲジ眉を下げながら胸の前で手を振る。にしてもこの人、欧米人並みに顎が割れてるってスゴいわぁ。
「アンタ全部口に出してるよ」
あ、すみません。なんて謝っている場合じゃない。ぼやぼやしてるうちに警備員さんが復活してしまった。私は本格的にピンチかも。いや、かもじゃなくてマジでヤバイよ。でも私は足ががくがく震えて力が入らず、その場に座りこんでいた。
「こっちだっ」
いきなり路地から飛び出してきた男性が、その顎オジサンへ当て身を喰らわせると、顎オジサンは貧相な警備員さんの方へ向かって吹っ飛んだ。一撃で二人を倒す鮮やかさに私は声も出ない。
彼は私の腕を引いて無理矢理立ち上がらせると、そのまま風のように走り出した。手を引かれる私はさしずめ、欧米ドラマの新婚カップルの乗る車にくくりつけられた空き缶といった感じで、半ば引き摺られるようにしてその場から遠ざかる。立花先輩の「これでもくらえ」というドスのきいた声と野太い二つの悲鳴が夜のビル街に響いていた。
既に息の上がっている私は、これ以上走ることなんてできない。それを見て取った彼は、私の手を引いたまま近くの路地に飛び込んだ。あんなに走っても平気そうだった彼が、壁に手をついてもたれかかると肩で大きく息をした。
「さっき転んでたけど、足…大丈夫?」
横の焼き鳥屋から漏れる黄みを帯びた明かりが、私を風のようにあの場から連れ去った相手の姿を浮かび上がらせる。私は息を飲んだ。排気ダクトから美味しそうな匂いが流れてくる。
量感のある艶やかな黒髪は緩く巻いて、長すぎる睫毛が少し紅潮した白い肌に影を落とす。整った女性的な顔立ちに男を感じさせる太い眉が乗り、目瞬きもせず私を射抜く黒い瞳は、このまま私を吸い込んでしまいそうだった。いや、吸い込まれてもいいと思った。いやいやむしろ、どうぞ吸い込んで下さいと思った。
「あ…あの、ありがとう、ございます。貴方は…」
「俺は久々知…久々知兵助」
どうして?、と問う私は久々知さんの大きな目に捕らえられて視線を逸らすことができずにいる。
「残業でね。晩飯を買って戻る途中、走ってきた立花さんと浦風さんを見かけたんだ」
あの二人が逃げてるのはよくあることだからいいけど、見慣れない人が騒ぎに巻き込まれてたからね、と答える。額にかかる髪がゆらりと揺れた。
「君は見かけないけど、うちの、シノビの社員なの?」
頭の中が白くなった。どう答えたらいいんだろう。素の私でいる時にこの超美形に出逢えたのは嬉しいものの、株式会社シノビでお馴染みの七紙奈々子は今の私じゃない、悲しいけれど。だから咄嗟に口を突いて出たのは。
「あ、あの、浦風さんの友人で…今月入った派遣の八神睦美です」
そっか、よろしく八神さん、と久々知さんは微笑んでくれた。その穏やかな笑顔に私の胸は罪悪感で一杯になって苦しい。助けてくれた、しかもこんな顔も行動も男前な久々知さんにすら本当の事が言えないなんて。
まだ繋いだままだった手に気づいた久々知さんが、「ご、ごめん、悪い」と、少し照れながら手を離して顔を背けた。ようやく私はその大きな目から解放されたけど、久々知さんの柔らかな掌と細い指の感触が少し名残惜しい。でも繋いでいる間中、色んな意味で緊張しまくってスッゴイ手汗で、それが気になって気になって仕方がなかったから「まあいいっか」と自分を慰めた。