帰りはコワイ 1
ある程度遅い時間になるとオフィスビルの表側は施錠されるので裏口からビルの警備係がいる通用口を通って外へ出る。今日はメイクを落とすのに遅くなった私を待っていてくれた立花先輩と藤内美ちゃんの三人で帰ることになった。
「先輩、あの人です。怪しいのは」
警備員室の前を通りかかった時だった。丁度タイミング良く例の人がいたのだ。
「何というか…怪しすぎるというか…微妙すぎるというか…」
初めて見たという藤内美ちゃんが吹き出しそうになっている。私はメイクとクレンジングに時間がかかるので、他の人より早く出勤し遅く退社することが多かった。だからあの変な人を見掛けることが多かったのだろう。
「あんな間抜けは放っておけ」
立花先輩はその男性を一瞥すると、私達三人にしか聞こえないように囁いた。
面長の顔、細い鼻梁に薄い唇、頬が痩けているのが貧相さを倍増している。その男性は夜にも関わらず真っ黒のサングラスをかけていた。立花先輩のいう通り確かに間抜けな感じがする。
「あの男は毒田警備保障からの転職組らしい」
「毒田ってあの毒田建設と関係があるんですか?」
藤内美ちゃんが驚いた声を出した。立花先輩は頷いた。
「そうだ。元々は自社物件建築時の警備員派遣業だったのが、最近ではビル管理や建築後のマンション管理まで請け負っているらしい」
「どうしてウチの会社に?」
さあな、と立花先輩は肩をすくめた。
私達は何事もなかったように警備室へにこやかに挨拶をして出る。例の男性は立花先輩と藤内美ちゃんに笑顔を向けられて、だらしなく鼻の下を伸ばしていた。
駅へ向かって藤内美ちゃんと他愛ない話をしながら歩いていると、突然、立花先輩が厳しい顔つきになった。
「藤内美も奈々子も前を向いたまま話を聞け。私が合図をしたら駅へ行かずに大通りに向かって走れ、いいな」
えっ、何ですか?この緊迫した展開はっ?!私は立花先輩を見上げた。
「振り返るな、奈々子。ビルを出た時から後をつけられていて……お前達はそのまま会話を続けろ」
緊張した私は何となくお腹が痛くなって、別の意味で緊張してきた。三人とも歩くスピードを変えずに、愉しげに喋るフリを続ける。立花先輩は後ろに目が移動するんじゃないかという位、注意深く背後の様子を窺っていた。
「……走れっ!」
先輩の鋭い声と共に三人が一斉に走り出す。チッ、と舌打ちが聞こえた。この時間帯になると、オフィス街は急に人通りが途切れることがあって、私達のヒールの音だけが喧しくアスファルトの道路に響き渡る。
背後からドタドタと重たい男のものであろう靴音が聞こえてくるが、振り返って確かめる余裕も勇気もない。車の多い大通りまで出れば人目もあるので、そこからタクシーなり店に入るなりで撒けばいい、そんな思惑だったのだろう。だが思ったよりもここからは距離がある。日頃あまり運動をしない私が少しずつ遅れだして、立花先輩が焦ったように私をチラと見た。
既に私のすぐ後ろまで迫っているのだろう。追ってくる男の激しい息遣いが耳に入る。
「もうダメです。先輩逃げて!」と「お願い、先輩!助けて!」、二つの相反する感情で一杯になった胸の内が表情に出ていたのだろう。立花先輩が眉間にシワを寄せて、走りながらバッグを漁って何かを探している。私は細いヒールにかかる体重で足の裏が死ぬほど痛いけど、それでも懸命に走る。一体誰に追われているのか、相手が一人なのか複数なのか、それさえ分からない。
「待てっ」と背中を男の指がかすめる。私は最後の力を振り絞って足を踏み出そうとしたが…足がもつれて転んでしまった、何もない所で…。
それが効を奏したらしい。真後ろで私を追っていた男は、急にうずくまった私に引っ掛かって地面に転がった。見れば先程挨拶を交わした貧相な警備員さんだ。「やった」と思ったのも束の間、次の瞬間私は凍りついた。
「やってくれたな、お嬢さん」