朝っぱらから 2
「俺はせめて奈々子ちゃんの顔が見られたらと思って呼び出したんだけどさ。とてもじゃないけどこの土日は忙しくて無理だったから……」
そう呟いた尾浜さんの声音には色濃い疲れが滲んでいた。今のは私の聞き間違い?!まさか尾浜さんが私に会いたかったってこと?どうしても会いたかったから、この朝っぱらのクソ忙しい貴重な時間帯に私を呼び出したってこと?そうあって欲しいような欲しくないような。
──ああ、もうっ。そうじゃない!
わ、私はっ、奈々子は一体何を考えてるんだっ。これはこの男の戦略だ。戦略に違いない。この憔悴し切った顔も、汚れたシャツも、よれよれになったスーツも、きっときっと全部そうだ。そうなんだ。傷つき弱った所を見せて母性本能を煽った挙げ句、近づいてきた餌をパクッと丸飲みしてしまう提灯アンコウ作戦なんだ。
「奈々子ちゃん」
──はいっ。
珍しく朝一から頭が回転した私だったが、不意に声を掛けられ現実に引き戻される。尾浜さんにからかわれていると解っていても、後に続く甘い言葉に期待を寄せてしまう馬鹿な私がここにいた。
「コーヒー溢すよ」
「……ありがとうございます」
尾浜さんが可笑しそうにくすくす笑いを溢した。
「本当、飽きないよねー。いつだって奈々子ちゃんは予測通りの行動とるからさあ」
ムッとしたまま無言で食べ始めたものの、いつもの調子を取り戻しつつある尾浜さんの上から目線な発言に内心安堵のため息を吐く。でも絶対顔には出せないけど。
ただそうなればなったで気になってしまう。尾浜さんがほぼ徹夜で何処で何をしていたのかを。もし立花先輩が言ったように『仕事』だとしたら、それは聞いちゃいけないことだし。
「どうしたの、奈々子ちゃん」
尾浜さんは疲れた顔で、それでも瞳だけはくりくりと輝かせながら私を覗き込んだ。
「俺が何処で何をしてたか気になってる?」
「別に……どこで何をしていようと尾浜さんの勝手ですし……」
でも言い終わるか終わらないかのうちに胸の奥底にぐっと押さえ付けていた気持ちが湧き上がる。
──嘘。やっぱり気になる。
素っ気なく応えたつもりが思いっきり気になってますって感じが滲み出てしまって、もう自分で自分が痛々しくて堪らない。そんな私の様子を横目にしつつご機嫌な尾浜さんは、鞄を探ると薄い黒の手帳を取り出した。そして首を傾げる私に手渡しながら邪気のない顔で微笑んだ。
「見ていいよ」
──スケジュール帳を?
尾浜さんは口許に弧を描きながら黙って頷いた。けど言われてパラパラと中身に目を通したものの何が何だかさっぱり解らない。だってそこにあるのは数字と記号とアルファベットの羅列だったから。怪訝な顔をした私を見てとった尾浜さんの眉が、まるでしまったとでもいうかのようにピクリと動いた。そして、
「ごめん、ごめん。表用はこっちだった」
貼り付いたような笑顔を固まらせたまま私の手から黒い手帳を取り上げると、さっきと全く同じそれにすり替えた。
でも「見て見て」なんて焦りながら言われたってもう信用できない。ていうかさ、『表用』って何。もういきなり不審度MAXまでメーターが振り切れてるし。
けど尾浜さんにしては珍しい程必死な目付きでこちらを見つめてくるから仕方がない。私は渋々手帳へと目を落とした。するとこっちはごく普通に予定が書いてあって、昨日は会長の家となっていた。正確にいえば土日は出勤で月曜の夜に会長の家みたいだった。それでもまだまだ不審そうな眼差しの私が顔を上げると同時に、尾浜さんが口を開いた。
「まだ理解できないって顔だよねー。んまあ、当たり前か」
確かにそうだ。外泊する理由が見当たらないんだもの。よしんば会長の家に泊まったとしたら、もう少しましな顔をしている筈だのに、と尾浜さんの下瞼辺りに出来た隈をしげしげと見つめた。
「公私混同しないで貰いたいよね。まったく良い迷惑だよ」
尾浜さんは眉間を寄せ溜息を吐くと、腕組みしたまま少し前屈みで唇を突き出し、ストローをキャッチする。そしてずずずと大きな音を立てながら薄まったコーヒーを勢いよく吸い上げた。その何となく投げやりで子供っぽい仕草に、いつも余裕たっぷりな彼とのギャップを感じて知らず知らずに見入ってしまう。普段はあれほど体裁に構う尾浜さんなのにこれは一体。けれど今は取り繕う余裕もないみたいだった。そんな尾浜さんの意外な一面をみた気がした私は、ほんの少しだけ追及の手を緩めてもいいかななんて思ったりして。もっともこれも作戦の内かもしれないけど。
尾浜さんは丸い目を細めながら再度探るように私を見つめた。
「ここだけの話だけどさ……。万が一話が漏れたら俺は真っ先に奈々子ちゃんを疑うからね」
いやいやいや、そんな話は聞きたくないです。しないでください。そう思った私が遮る間さえ与えずに尾浜さんは話を切り出した。
「ほら。会長の孫娘さ、いるじゃん。知らない?」
確かあのユキちゃんやトモミちゃんと同い年の小柄で可愛い感じの子だったっけ。
「そうそう、それ。でさ、その子に彼氏が出来たみたいでね。今、会長が疑心暗鬼になっててさ」
今どきそんなこと放っときゃいいのに、と尾浜さんは憮然としながら頬杖をついた。
「その孫娘と相手の男を素行調査しろって言い出してさ」
何とも答えようがない私はただ黙って尾浜さんの顔を眺める。
「でもさあ」と尾浜さんは私の方へ身を乗り出した。
「やましいことあるかないかくらい、顔見りゃわかるじゃん」
確かに尾浜さんじゃあるまいしねえ、なんて感じたけどそれは伏せて、
「でも、人って見掛けによらないから」
そう答えると尾浜さんはてんでお話にならないといった風に頭を振った。
「いやいやいや、奈々子ちゃん。その子の彼氏誰だと思う?奈々子ちゃんも絶対知ってるよ」
そんな大会社の会長を祖父に持つお嬢様の彼氏を、私が知っている訳ないじゃん。……いやさ、本当は一人だけ鼻水を垂らした人の良さそうな青年の顔が脳裏に浮かんだんだけど慌ててそれは打ち消してたりする。
「いや、知ってるって!」
──嘘。
「だからその、まさかなんだよ」
──…………!!!
「大体あいつら二人がそんな大人の関係にある訳ないじゃん」
尾浜さんは鼻を鳴らした。
「しかも俺に向かって『尾浜さん、お祖父ちゃまの命令とはいえしんべヱしゃまを監視するなんて酷いでしゅっ。私達は清らかな交際なんでしゅー』なんていうんだぜ」
口を尖らせてその孫娘らしき人物のもの真似をする尾浜さんのその眉間に刻まれた深い皺に目が行った。あー、尾浜さんてばかなり怒ってるし。でもそれだけじゃ土日と昨日の説明は付かないもんね、なんて考えてたら尾浜さんは私の言わんとするところを察したらしい。
「土曜は普通に休日出勤してたら夕方頃だったかな。運悪く会長から連絡が入ってさ。行けば今から孫娘を見張れなんていうんだよ」
参るよ、もう、と額に手を当てた。
「でさ、夜中ってか未明からお迎えベンツが来て車で出発しちゃうから慌てて黒木と二人で彼女を追ってさ」
で、行くとこ行ったら面倒臭いし適当に報告して帰るつもりだったのに……、と尾浜さんは溜息を吐いた。
「あいつらどこで何してたと思う?」と目をくりくりとさせながら私に尋ねてきた。
「さあ……さっぱり……」
私の答えを噛み締めるように頷く。
「そのままファミレスで夜明かし。いい年してんだからさ。それに何だよ、あの『しんべヱしゃま、お鼻ちーんするでしゅー』はっ!」
横並びで座って人前でままごとしてんじゃねえっ、と尾浜さんは鼻息を荒くする。尾浜さん、お怒りはごもっともですが、それは人それぞれだと思います。
「で、その後が最悪。どこ行ったと思う?」
私はこれ以上ないほど眉尻を下げる尾浜さんを初めて見た気がした。