朝っぱらから 1
昨日の帰りに直行直帰の許可が出たと竹谷代理へメールをし、最寄り駅まで来て欲しい旨を伝えた。まあ、実情は渋々お願いした訳だけれども。だから今朝はいつもよりゆっくりでいい。目は覚めていたがこれから小一時間、私は夢現のまま寝床でごろごろ寝坊できる幸せに浸ろうと考えていた。だのに!
唐突に眠りを妨げる呼び出し音が賑やかに鳴り響く。しかもこの、映画『恐怖!人喰い鮫』の着メロっていえば一人しかいない。身体中の細胞をアドレナリンが駆け巡り心拍数が一気に上昇する。即座に私は眠りから覚醒した。
「七紙です」
『おはよう、奈々子ちゃん』
──お…尾浜さん!まさかと思ったけどやっぱり。
間違いであって欲しいという一縷の望みは特有の間延びした声を耳にした途端、泡の如くきれいさっぱり消え失せてしまった。
「朝っぱらから何ですか?」
『奈々子ちゃんの最寄駅ってさ。駅前にフランチャイズのコーヒーショップがあるじゃん』
あー、確か西口にあったっけ。
『そうそう、そこ。20分後ね』
「はいぃ?!」
──……無理です。化粧して着替えるだけで精一杯です。それに朝ご飯食べないなんて考えられません。
『一緒に食べりゃいーじゃん』
「あ、えっと…あ…」
起きたといっても、まだまだ寝ぼけている私の頭はいつものように回転してはくれない。この際お茶代を払ってくれるならいいか、なんて考えが頭を掠める。
『別に今日は七紙さんじゃないから化粧も簡単でしょ』
いやいやいや、どの女子もそれなりに顔面の建設は時間がかかるんです。
『何ならマックでもいいけど』
尾浜さんもそんなの食べるんだと意外に感じる。いくらB級でも流石にそれじゃグルメとはいえない。ていうかむしろジャンクだし。
「朝からヘビーなものは遠慮します」
すると電話の向こうの声が弾んだ。
『んじゃ、カフェで待ってるから早く来てねー』
こうして話す時間さえもどかしいのか、私が口を挟む間もなく一方的に通話は切られてしまった。
まったく。どうして、こう邪魔が入るんだろうか。ここ最近私の思惑通りに話の進んだためしがない。
でも尾浜さんがこんな朝早くから連絡してくるとは、何か伝える必要に迫られてのことかもしれないし、と冷静に考え直す。私はのそのそベッドから起き上がると仕方なく、でも急いで身支度を始めた。
家から駅まで歩いて十分余り。私は普段より更に適当に身支度をして家を出た。今日は何事もなければ竹谷代理が仕組んだ直行直帰だから、代理には駅前の西側ロータリーで拾って貰う約束をしていた。
──ちょっと待て奈々子!
尾浜さんと待ち合わせしているコーヒーショップは西口じゃん!てことは時間ギリギリまで尾浜さんに粘られたら、竹谷代理から『朝食を共にする二人=朝チュンカップル』なんてあらぬ誤解を受けてしまう。でも、まさか尾浜さんがそこまで狙ってたなんて思えないけど……。
──いや、有り得る!
昨夜、私が鉢屋さんに提出したことになっている届出を鉢屋さんが「自分で」作成して登録した後、それより遅く戻った尾浜さんが見付けていたら。「だから人事の人は面倒なんだよね」と思ったけど、単に尾浜さんの頭が良からぬ方向に素晴らしく回転するだけだし。
それにしたって相手が竹谷代理というのは始末に悪い。見るからに単純で素朴な代理はあっさり尾浜さんの策略に引っ掛かり容易く誤解してくれることだろう。これ以上のトラブルは何としてでも避けたい。只でさえ昨日の一件で皆から訳有りの変な女と認識されているのに。
私は目指すカフェに辿り着くと一旦立ち止まった。そしてドアの前で大きな深呼吸をして心を落ち着かせると、本日第一番目の合戦へ向かうべく足を踏み出した。
店に入り辺りを見回せば、然程人の多くない店内の一番隅の席で、だるそうに手を上げるスーツ姿の男性がいた。尾浜さんだ。相変わらず目敏く見付けてくれたものの、朝一のせいかいつものような覇気がない。ていうか何となく普段と違う感じ。でもその席はレジから遠かったので私は大して気にも留めず、鞄を持ったまま先に注文を済ませることにした。
だけどサンドイッチとコーヒーの朝食を乗せたトレイを持って尾浜さんへ近付くにつれ、意外な姿が視界に飛び込んできた。何故ならそこにいたのは疲れたサラリーマンの、オ……男の人だったから。
普段の尾浜さんといえば良さげなスーツをきっちりと、時には着崩しながら隙なく着こなしているのに。今私の目の前にいる尾浜さんは目の下に隈を作りうっすら伸びた無精髭も青く、ようやくといったふうに眠たげな瞼を持ち上げていた。
けどYシャツだけやけに張りがあって白く輝いているのは、買いたての新品だからだろう。尾浜さんが選んだにしては珍しく安っぽいボタンが付いていて、襟の形も微妙に左右が違って歪だった。いつもの仕立てが良いシャツは何処へやらと思ったら、足元に置かれた紙袋に丸めたまま放り込まれている。チラリと見えたタグがブランドものだったのでやっぱりなんて思ったりして。
でも今までこんな尾浜さんは見たこともないし、むしろ彼は格好悪い姿を他人に、特に女の子には見せたくない種類の人だろう。だとするといよいよもって尋常じゃない。なのに私を呼び出したってことは、私は尾浜さんにとってだらしない姿を見せてもOKなどうでもいいランクの女なんだろう。いや、女とすら思われていないのかもしれない。そう考えると少し切ない気分になる。
私は壁際に座る尾浜さんのテーブルにそっとトレイを置いた。飲みかけたまま放置されたグラスの中で、溶けた氷とコーヒーが二層に分離していた。
「お……おはようございます」
「ん、ああ……おはよ」
「寝不足ですか?」
「まあねえ……」
尾浜さんは向かいへ座るよう目線で促すと弱々しく微笑んだ。明らかにいつもと違う。ていうか尾浜さんが寝不足になるような事態ってさ。仕事は出来得る限り時間内に終わらせる主義の尾浜さんなのに、まさかまさかの不足の事態でお泊まりだったとか。しかも、その、だ……誰かと一緒だったりなんかして。
すると尾浜さんは私の頭の中まで見透かしたかのように、すっと目を細めた。その不快そうにした一瞬は、いつもと同じ抜け目ない尾浜さんの表情だったので少し安心する。
「あのさあ……。奈々子ちゃんのことだから、どうせ俺が女の子と一緒に朝帰りしたとか何とか考えてるんでしょ」
意地悪そうにニヤリとした尾浜さんは、一呼吸置いて私の様子を探りつつ先を続けた。
「……正解」
その刹那、心臓から音が聞こえるんじゃないかと思うほど大きな脈を打つ。そして何故だか胸の奥底が締め付けられるような心地がした。尾浜さんが誰と週末を過ごそうと私には一切関係ないのに。
──もうっ、この男はっ!何考えてんのさ。そんなことわざわざ私に言わなくたっていいじゃん!
かける言葉を失った私が向かいに座る尾浜さんの顔を穴の開くほど見つめていると、尾浜さんは突如真顔に戻った。
「奈々子ちゃんが俺のことをどう捉えてるのかよく解ったよ」
薄まったアイスコーヒーを面倒臭そうにストローでひと混ぜすると、尾浜さんは再び口を開いた。
「残念ながら今のところ決まった子はいないから」
決まった子がいないなんていわれたら、「じゃあ、不特定多数なのか」なんて考えが頭をかすめる。それを察したのか流石に尾浜さんは不愉快そうに唸った。
「そう思いたいのならそれでいいけどさ……」
私は黙ったままコーヒーを啜りサンドイッチに手を伸ばす。でも次の瞬間、飲みかけたコーヒーを吹き出しそうになった。