今から帰社します 3


「それは構わないが、七紙さん。うちの会社は経済路線しか認めないから……まあ、そういやそうだな」
何を思い付いたのか竹谷代理は一人で納得すると一瞬だけ私に目線を送った。
「つまり七紙さんの家は研究所方向にあるってことだろ?んじゃ、どうせなら明日は直行直帰すると届けを出しといたらどうだ?」
「送ってやるから」という竹谷代理の弾む声が聞こえた気がした。ついでに代理の眉がキリリと持ち上がりやる気一杯な状態を示していた。

 ───もしかして私、墓穴掘った?!

聞き間違いでないとすれば、いよいよもってマズイ。瓢箪から駒じゃなくてまさに薮蛇。どうしてこうなったって感じ。
「あ…ありがとうございます。でも、まだ認めて貰えるかどうか分からないんで…」
「人事の同期に俺から確認してやろうか?」

 ───やめてー!

竹谷代理が最高の笑顔を返してくれるけど、今はそれを素直に喜べない。お昼に助けてくれた鉢屋さんからこれ以上嫌味言われたくないし。
「大丈夫です。駄目なら普通に出社しますから」
そうか、と食い下がることなく意外にもあっさり応えた竹谷代理は車線を変えて下の道へ降りていった。ここからもう少し走れば本社に辿り着く。
どうか道が混んでいませんように。そう願ったのは明日の話をこれ以上詰められたくないこともあるけれど、予定より到着が遅れているのが気がかりだったからで。何故なら七時半を過ぎればまた悩みの種が一つ増えてしまう。

「なあ、七紙さん」
信号待ちの間、ごく普通の世間話をするような口調で名を呼ばれて、俯き加減だった私は竹谷代理の方を向いた。
「七紙さんはどんなときに八神さんになるんだ?」

 ───そりゃ私がやらかした時ですよ、大抵は。

とは答えられないので、
「会社の行き帰りですね」と無難に答える。すると竹谷代理は信号が碧に変わる間際、こちらに眼差しを向けた。
「……七松係長に目をつけられなかったか?」

 ───もちろん既に見つかってますよ。

先週のことを思い出しつつ黙って首を縦に振る。すると竹谷代理は「げっ」と呻くと眉尻と口角を目一杯下げながら苦笑した。
だけど今のところ尾浜さんが効果的かつ困ったメールを送って以降、七松係長からの連絡はない。もっともお互いが忘れた頃にまた連絡してきそうな人だけど。
「あの人の野生の勘はマジスゲエな」
竹谷代理が恨めしそうに呟いた。確かに酔ってた時は冴えてたけど、先週のは勘も何も食満係長が飲みの席で余計なこと言ったからだし。
「なあ、七紙さん。もし係長のことで困ったらいつでも俺に連絡してくれたらいいからな」
その言葉は有り難いけど竹谷代理ってばあんまし本社にいないじゃん。それに七松係長は端から竹谷代理の敵う相手じゃないような気がする。何ていうか申し訳ないけど格が違うって感じ。そんな私の気持ちが伝わってしまったのか、竹谷代理は面目ないといった様子で頭を掻いた。
「いや、さ。折角知り合ったんだし…」
気のせいか竹谷代理の声が少し上擦っているように聞こえた。けど日も暮れた今、路肩から射し込む街灯の明るさだけじゃ代理の細かい表情まではよく分からない。だから私は無難な笑顔を返した。
「ありがとうございます。その際はよろしくお願いいたします」
この先何があるか分かったもんじゃないし。

車内から見える景色がいつも見慣れたものに変わる。竹谷代理は今朝待ち合わせたビルの物流窓口を兼ねた駐車場に車を停めた。遅い時間になると駐車場は人影が消えて昼間の気忙しい雰囲気からガラリと変わり、薄気味悪い空気が漂っていた。
「七紙さん、詰所の脇に台車があるから取ってきて」
竹谷代理に言われた私は薄ら寒いものを感じつつ、キョロキョロしながら蛍光灯の点いた詰所の方へと歩いていった。ガラス窓のついた小さな受付の外には、確かに手押し台車が数台放置されていた。もうこの時間だ。物流の搬入口もシャッターが下りていることだろう。竹谷代理は鍵を持っているのか気になったその時だった。

突然伸びてきた所々かさついた男の手。反撃する間も悲鳴を上げる間もなく、私は背後から口を塞がれた。比較的ほっそりとした指先からはタバコの匂いがした。

「シッ、静かに。私だ」

驚いた私が振り返るよりも早く後ろから声がかけられる。手荒な割には随分穏やかな声が耳に響いた。

 ───その声、もしかして鉢屋さん?!

どうしてこんなことするんです!もう心臓が口から飛び出そうになりましたよ!と言いたいところだったけど、口を押さえられたままではもごもごいうばかりで上手く伝わらない。その上、押さえている手を引き剥がそうと掴んだけど身体を抱え込むもう片方の腕もびくともしない。

 ───鉢屋さん、わかったから放して下さい。

「お前のことだから肩を叩いても悲鳴上げただろうが」
いきなり暗がりから人が出てきたら誰だって大きな声出しますって。
「またやらかしたみたいだな」
背後から覗き込むようにした鉢屋さんが片眉を嫌味ったらしく持ち上げた。こんなに近くで鉢屋さんを見るのは久しぶりな気がするけど、この前に会ったの先週なんだよね。もう私、忙しすぎだし。

 ───でもさすがは鉢屋さん、昼間のフォローは絶妙でしたよ。竹谷代理の『七紙と八神と会長』だけのヒントで正解を当てて貰えたなんて本当に感謝しています。だからお願いです。もう放して下さい。

なんて意味のことを、相変わらず口を押さえられたままの私は呻いていた。鉢屋さんとの距離が近すぎることもあって目を白黒させながら。
「私のフォロー代は安くないからな」
鉢屋さんは声を出さずに口角だけを引き上げて笑った。あーもう、いかにも腹黒いこと企んでますって感じの顔ですね。じたばたする私の反応が面白いから、わざとやってるんでしょうけど。諦めの境地で一睨みすると、鉢屋さんはククッと抑えた笑い声を漏らした。
だが突如鉢屋さんが動きを止めて気配を消す。一緒に息を殺した私は鉢屋さんの肩口へ頭を押しつけられる形になった。鼻先に近付いた鉢屋さんのスーツには微かにタバコの匂いが染み付いていた。

「七紙さーん、台車あったかー?」
呑気な竹谷代理の声が広い駐車スペースに反響する。それでも微動だにしない鉢屋さんは、じっと私を見つめ続けるだけで放してくれない。もう何を考えてるんだか全く理解不能。まさか鉢屋さんは「修羅場」という新展開を一人で起こそうとしているのかと勘繰りたくなってしまう。
「七紙さーん、場所わかるよなー?」
ねえ、鉢屋さん。このままだと竹谷代理がこっちに来ちゃいますよ!ほら、足音聞こえてる、しかも近付いてきてるし。目力だけで鉢屋さんに必死の思いを訴えると彼は渋々私を解放してくれた。
「奈々子、荷物用のエレベーターに乗れ。今、会議室のフロアは全室空だから竹谷と一旦そこで降りろ。理由は適当に作れ」
えっそんな、と訳が分からず焦る私に鉢屋さんは、
「押し間違えたフリでも何でもいい、とにかくボタンを押せ!いいな」
小声でそれだけ伝えると鉢屋さんは鍵を開け屋内に消えてしまった。

唖然としていた私がふと見上げれば、入口の隅にはしっかりと監視カメラが付いている。しかも出入口に付いているということは警備室のモニターに直接繋がるカメラってことだ。とすると兵ちゃんでなくて幸いだったのか、警備室の親父達の目の保養になってしまったのか。でもこの際どっちだっていい。私はただ警備室に小松田さんが詰めていないことだけを願った。

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