今から帰社します 2


「七紙さん、本社寄ると遅くなるから、そろそろ出るか?」
筋肉痛の薬を首筋に塗っていると、戻ってきた竹谷代理にいわれて急いで机の上を片付ける。明日も使うからそのままでいい、といった竹谷代理の声音が心なしか弾んでいるような気がする。
ヤだ、また夢前君がこっち見たし。これだから賢い子は本当に困る。既に彼は変装している理由がストーカーなんかじゃないことに気付いているかもしれない。帰ったら兵ちゃんに頼んで誤魔化してもらおう。確か夢前君とは知り合いって言ってたもんね。もしかして彼氏?なんて考えも一瞬浮かんだけど余計に話がこじれそうだと慌ててその考えを脳裏から追い出す。
支度の出来た私は竹谷代理と一緒に作業場となっている会議室を後にした。


「……どうして、そっちに乗るんだ?」
後部座席に乗ろうとした私に段ボール箱を持った竹谷代理は怪訝な顔をした。
「そこは荷物置くしよ」と呟きながらチラと横目で視線を送ってくる。でもその目線の位置が顎より下に来ていて、やや不自然だった。
残念ながら今日の八神さんはちゃんとブラしてますから!だけど、もしかしたら前にエレベーターで一緒になったときバレてたのかも、なんて思うと恐ろしくなる。普段色恋沙汰には鈍そうな感じなのにこんなことだけ勘が鋭いとは、竹谷代理って微妙に残念な人なんだろうか。もちろん食満係長程じゃないけど。仕方なく私は助手席に自分の荷物を移した。

それにしても、どうして今日の服をパンツスーツにしなかったのかと悔やまれる。というのは行きの七紙さんのときは全く気にしていなかった問題、スカート丈のことが俄然気になり出したのだ。立っている分には少し膝が出るかなという程度なのに座ると裾が太股までずり上がってきてかなり短くなるんだよね。行きの竹谷代理は色んな意味でひたすら前を見ていたから気付かなかっただろうけど、たぶん今は違う。

「七紙さん、忘れ物ないか?ま、明日も来るけどよ」
「はい、大丈夫です」
竹谷代理はハンドルに手をかけながら、段ボール箱の隙間から後ろを覗くように上半身を捻って確認すると車を発進させた。その一瞬、竹谷代理との距離が近くなる。しかも斜めから見た喉のラインと肩幅に、改めて竹谷代理の男性を感じた私はドキドキと鼓動が早くなる。でもそれを気取られたくなくて然り気無く窓の外へと目をやった。

インターの標識を目指して田舎道をひた走れば昼間とは違い意外にも車通りが増えている。この辺りは通勤の足が車になるからだろう。ということは最寄り駅といっても電車の本数は期待できなかった。

「なあ、七紙さん…というかだな。その…いったいどっちが本名なんだ?」
竹谷代理は前を向いたまま私に尋ねた。そろそろ肌寒くなる時間帯だというのに、まだ腕捲りをしている。ハンドルを持つ手は白いYシャツとは対照的に黒く日焼けして、それに続く前腕は何度見てもがっしりとしていた。
「……七紙です」
「てことは、奈々子が本名か?」
「はい」と私はかすれ声で頷いた。こりゃ立花先輩に怒られるの決定だなと考えながら。
「そうか。じゃあ立花先輩は希望通りにしてくれたってことだな」
唐突に先輩の名前が出されて驚いた。どういう意味ですか?
「人事から女史に補助の人員を依頼するよう指示されててよ。どうせならってんで…」
ダメ元で八神さんを指名したんだ、と竹谷代理はこちらを向くと嬉しそうに笑みを見せた。

 ───指名料を頂きたく存じます。てか前を見て運転してください。

しかもほんの一瞬、竹谷代理の視線が太股を掠めたような気がしたので私は膝に書類鞄を置いた。
「あの…でも、今は八神さんということにして頂けますか」
竹谷代理の無言が何故という彼の問いかけを示していた。私はまたもや嘘をつく。
「会長に言われてるので…」
ようやく竹谷代理は納得したように唸った。
「ここだけの話だが、七紙さんもいい迷惑だな」
それだけいうと竹谷代理は前を向いたまま顔をほころばせた。どうしたんですか?私が何か?!
「いや…あれだな、と思ってさ…」
妙な間合いに緊張が走る。一方的に、私だけに。
「怪我しなくて良かったなあ。結局あん時俺が助けた七紙さんの中の人は七紙さんだった訳だしよ」
意味不明な発言だけど言いたいことは何となく理解できた。
「やっぱ俺ツイてるなって…」
竹谷代理の台詞にどう応えたらよいのか適切な言葉が見つからなくて、私は口をつぐむより他はなかった。何よりこれ以上話をこじれさせて立花先輩に怒られるのが怖かったこともある。それに今後竹谷代理をどのようにして堅く口止めすればいいのか皆目見当がつかなかった。

竹谷代理がハンドルを切る。ぐるっと回り込みながら私たちを乗せたバンは遥か先の本社へと続く高速入った。
兎に角、立花先輩に事の次第をメールしておこう。偶発的にバレたこと、竹谷代理には入社試験と伝え、他の社員へはストーカーのせいにしたこと、大木先生とは素に戻って以降まだ顔を会わせていないこと。

だがこれだけ挙げただけでも全ての理由がバラバラな上、嘘の上塗りも重なって読むだけで頭痛がしてくる。それに軽く目眩がするのも乗り物酔いのせいだけじゃない。しかも竹谷代理から見えないように打つのが一苦労だった。

「どうした?七紙さん、彼氏からか?」
やっとのことで送信し終わった私に軽い口ぶりで探りをいれる竹谷代理の質問は、意識しての問いかけか、はたまた無意識から出たものなのか。
「総務の人から連絡が…いえ、大したことじゃないんです」
軽い笑みを返しながらそっと竹谷代理を盗み見る。等間隔に並んだナトリウム灯が代理に反射して横顔の輪郭をオレンジ色に照らし出していた。
竹谷代理は久々知さんのようないわゆる美形ではない。けれど男らしくて格好いい。隠す気がないのか微妙に滲み出ている下心も含めて素朴に感じられる人柄が魅力的だった。
今朝から私が八神さんだったら今ここでこんなに困る必要はなかったのに。存在だけ偽ればそれ以上嘘をつく必要はなかったのに。そう考えると胸が痛い。

「あの…本社へは何時頃着くんですか?」
竹谷代理は片手でポリポリと頭を掻いた。
「あー、途中混んでなかったら七時過ぎには着くだろ」
七時かあ、退社のピークは過ぎてるかな。それに久々知さんが晩ごはん買いに行くにはまだ早いからそっちも大丈夫だろう。
「明日のことですけど…」
そう口にした途端、竹谷代理が嬉しそうにこちらを向いた。違います、期待されるような話じゃありません!お願いだから運転に集中して下さい!
「最寄り駅で拾って頂くことは出来ますか?明日も研究所なら本社に来るのは時間のロスなので…」
話は通していないけど事情が事情がだから速攻で鉢屋さんに連絡すれば間に合う筈だ。すると竹谷代理は額に手を当て暫し考え込む素振りを見せた。代理の眉がちょっと下がってる辺り、さしずめがっかりしたということなのだろう。

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