今から帰社します 1
午後は伊賀崎さんが予め選別していたファイルを、持ち出せないものから先にチェックする。『矛盾してそうな箇所は附箋付けて内容記しといて』って竹谷代理に言われても、元々この部署にずっといた訳じゃないからよく分からない。見比べて転記ミスしていたり参照データがついていないといった基本的なことしか見付けられない。まさか内容を把握して矛盾を見つけろなんて無理がありすぎるし。それでも豪快な性格の大木先生は全てに於いてざっくりとした管理らしく、ファイルは附箋だらけになってしまった。
その上、大木先生は重要案件の管理がアバウトだった。申請その他デスクワークは竹谷代理を通じて管理部署へ丸投げされるにも関わらずだ。データは現にきちんと計測されているし大木先生の頭の中では整理整頓されているらしいんだけど、こと話を三次元に降ろすとなると、それらは訳の分からないことになっていた。そのため月一、二回の割合で竹谷代理のチームが管理に来るようになったらしい。
だから午前中の私のヒアリングは竹谷代理の管轄ではなく、立花先輩が人事を通してこの施設とそこにいる新人を内偵させたというのが正解だろう。竹谷代理にしても僻地で研修になった新入社員のガス抜きになるから丁度良かったのかもしれない。明日の予定は上ノ島君と初島君の面談を終えてから持ち帰る資料の準備をして、明後日以降は管理部門から要求されているデータの抜き出しを手伝うことになっていた。
目の前に積まれた書類は見る人から見れば宝の山なんだろう。でも私が見ても理解不能な数字と記号が並んでいるだけだった。もしこの内容を理解できれば現金化したい誘惑に駆られるのだろうか。私には見当もつかないけど、そんな輩が接触してきていないかどうか確かめるべく立花先輩は常務か会長の指示で私を寄越したのだろう。その割には頼りない調査員だけど、こんな私でも相手側への牽制の意味はあるのだ。
日もかなり傾くと竹谷代理や伊賀崎さんを含めた皆の能率は段々と落ちてくる。幸いなことに研究室にこもってしまった大木先生には、あれ以降会うことがなかった。このまま無事過ごすことが出来れば一安心と私は胸を撫で下ろす。
というのも大木先生は一旦自分の部屋に入ると数日間出てこないほど集中することがあるからだった。だから明日、七紙さんは変装していたと先生に伝えるかどうかは後で立花先輩の指示を仰ぐつもりでいた。ただし速攻でバレたと先輩に知れるのが怖くはあるけれど。
───だがしかし。問題はこれからだ。
竹谷代理は見るからに押しが強そうなタイプといえる。押しに弱く流されやすい私の最大の危機、それは帰り道。
もちろん帰路だって出張の一部だから何事もないとは思う、てか何事もなくて当たり前だ。でも、もしその万が一があったとしら。竹谷代理から逃れるには彼の人の良さを利用するしない。だがあの人懐っこい笑みに果たして私が抗えるのか自分でも疑問だった。暮れてゆく窓の外に時おり目を遣る度に、胸に渦巻くもやもやした何かはこれから起こりそうな出来事に対する不安なのか、或いは期待なのかそれさえ判断がつかなかった。
「伊賀崎、今日も泊まりか?」
一区切りついたのか伸びをして肩を回した竹谷代理が静寂を破った。
伊賀崎さんが帰るならそっちに乗せてもらうのも有だよね。
「残念ながら…研究室の方たちもご自分の仕事がありますからね。大木先生ばっかり手伝っていられないでしょうし」
伊賀崎さんはノートパソコンの画面から顔を上げた。色白の顔にうっすらと隈が出て疲労の色が濃い。
ダメか、まいったな。大木先生もいい加減電子化すればいいのに。
「そうか、悪いな。じゃ、本社まで持って帰るものあるか?」
俺たちで運んどくからよ、と竹谷代理は横目でチラとこちらを見ながら応えた。ちょっと、『俺たち』って私も含まれてる訳?!
「ではお言葉に甘えて、電子化に手間のかかる資料をあちらに置いてありますからそれを…」
伊賀崎さんは部屋の角に積まれた段ボールに目を遣った。竹谷代理は了解と親指を立てると佐武君と夢前君に声をかけ車に積むよう促した。
竹谷代理の偉いところは自らも率先して動くことだろう。紙資料がぎっしり入った箱はかなりの重さになるようで、持ち上げた夢前君は微かにふらついている。さすが佐武君は鍛えてるだけあって二個重ねていた。だけど竹谷代理は、
「俺、大学の時、引越屋でバイトしてたんだ」と嬉々としつつ段ボール箱を三段重ねに積むと「いよっ」と持ち上げ歩き出す。私が慌ててドアを開けにいくと、
「ありがとな」なんて眩しい笑顔を返してきたから一瞬くらりとして胸が高鳴る。
「重いもんは持ち方のコツがあってな」
廊下から響く竹谷代理の声が次第に小さくなってゆく。夢前君と佐武君の笑い声が遠くに聞こえた。
力あるんだなー、なんてぼんやりと考える。あれくらい力があったら女の子を横抱きに、通称『姫抱き』なんか楽勝だよね。本社の女子がキャーキャーいう筈だよ。そういや食堂のときも大騒ぎだったっけ。確かにあの時の竹谷代理は格好良かったもんなあ。がっしりしてて胸板広かったし、ちょっと獣臭さがあったけど。てことはいざという時、私を運搬するのも楽勝だよね、なんて想像をしていると堪らず頬に熱が集まる。もう、こんな所で何考えてんだか、私は。
だが妄想がここに至ってやっと気がつく。
───いざという時ってさ。私ピンチで危険が危ないって場合じゃん!
いやいやいや、私が危ないんだけどさ。疲れた頭をぐるぐる回して片手で首を揉んでいると伊賀崎さんがこちらを向いた。透き通った眼差しにこの恥ずかしい心の内を見透かされてやしないかと心臓が跳ねる。
「七紙さん肩凝ったんですか」
「……はい」
「PCだと目視チェックは疲れますもんね。ちょっと待っててください」
───もしかしてこれは『肩をお揉みしましょうか』というフラグ?!
思いもよらぬ期待に胸が弾む。すると伊賀崎さんは椅子に腰かけたまま下に手を伸ばしゴソゴソと自分の鞄を漁りはじめた。そして深緑のキャップがついた白く大きなチューブを手に起き上がると私に向き直った。
「これ、目の疲れから来る肩凝りによく効きますよ!」
───ああ、その笑顔がとてつもなく眩しい。でも途方もなくしょっぱい。
「ありがとうございます」と受け取りつつ心で呟く。
───筋肉痛に効く塗薬より伊賀崎さんの手の方が数倍効果がありますから。
『奈々子さん、手が届きますか?差し支えなければ私が塗りましょうか』だったらもっと効果的だったかもですよ、伊賀崎さん。真剣な面差しで再びモニターに向かってしまった整った横顔を、私は心底残念に感じながら深緑のキャップを外した。