油断してたら 3


それらは全て同時だった。

「いやぁぁぁー」
「こらぁー!畑に入るなっ!」
「ジュンコォォオ!」
「七紙さんっ!」

その時何がどうなったのかよく分からなかった。ただハウスの両端のドアが同時に開けられて、折しも初夏の風が爽やかに且つ勢いよく吹き抜けたことだけは覚えている。
なぜよく分からないかというと、買い替えたばかりの私のだて眼鏡にはベッタリと何かが貼り付いていたからで。でも眼鏡だけならまだ数段マシだったのに。
「ジュンコォォー、心配したんだよォ、どこいってたんだーっ」という伊賀崎さんらしき泣き声がした以外、辺りは静まり返っていた。

恐る恐るといった口調で話しかけるのは上ノ島君だろうか。
「あの…えっと…七紙さん…大丈夫ですか?」

 ───間違いなく大丈夫じゃないと思います。

私は眼鏡を取ろうとして手に触れた『それ』のあまりのベタつき加減に吃驚した。

 ───嘘ぉ、何これっ!

もはや胸は嫌な予感で一杯になり心臓はバクバクと早鐘を打ち始める。
「す、すみません…すぐに取りますから…」
恐縮しているのか上ノ島君とは違う自信無さげに震える声。

 ───ちょっと待ってぇ!

なんて言う間もなく私の眼鏡についた黄色いそれを引っ張られる。だがそれが貼り付いていたのは眼鏡だけじゃない。何と夏場に向けて新調したばかりのウィッグにまで被害が及んでいて、当然結果は明白なワケで。

ズルリとした感触、に続く「ギャッ」という悲鳴。予想外に眼鏡とカツラがすっぽり外れたもんだから吃驚して当然よね。しかも片方の睫毛も一緒に剥がれたし。とは思うものの彼の親切心を今はひたすら恨めしく感じる。この間年長者である大木先生や竹谷代理の声は一言も聞こえてこない。というか誰も何も言わないから逆にいたたまれなくっなった私は、その場に立ち尽くしていた。

「か…上ノ島君…じゃないよね。君は…」
「あわわ…えっと、僕は…何だっけ。あ、初島。初島孫次郎ですぅ」
些か気の弱そうな声音で彼が気の毒になる。
「…ごめんね。ビックリしたでしょ?!」
返事がないのは仕方がないかと、やっとスッキリした視界を左右に振れば、ぽかんと口を開けたままの竹谷代理と目が合った。代理は慌てて表情を取り繕うと初島君に向かって大声を出した。
「おい!孫次郎、ハエ取り紙を触っちまったついでだ。七紙さんを給湯室へ連れていってハエ取り紙を取ってあげてくれ」

 ───やっぱりハエ取り紙か!

子供の頃お祖母ちゃん家で興味本意に触って怒られたっけ。というより取るのに難儀するあのベタベタを思い出して憂鬱な気持ちになる。幸い身体にはほとんど被害がないけれど、左側の顔には付いているからまたもや化粧は落とさざるを得ない。

これ取るのは大変なんだよね。サラダ油で落とすからオイルクレンジング状態だし。
そこでまたもや不味いことに気が付く。でも今回ばかりは私のミスじゃないと思いたい。少なくとも半分くらいは。
しかもさっきまで「どうするよ、この人」って顔をしていた竹谷代理が、何か思うところでもあったのか顎に手を当て思案顔でじっとこちらを見つめている。

 ───悪いけどこっちこそ、どうするよ、これ!って感じだし。まさか同時に両端のドアが開いて風が抜けたなんてなんたる偶然。

だが竹谷代理に余計なヒントを与える気はさらさらない。私は顔を背けるようにして初島君の影に隠れると、一刻も早く給湯室へ案内してくれるよう彼に頼み込んだ。
そそくさと立ち去ろうとした私に竹谷代理が、
「あのさ…七紙さん、オレ…いや、私に会ったこと…」
「ありません」と即座に断言する。けどよく考えたら私自ら墓穴を掘った感じ。竹谷代理が飲み込んだ言葉を深読みして答えちゃったわけだから。
おそらく代理は八神さんのことを尋ねたに違いない。だって柄にもなく『私』なんて改まってたし。でもここは一つ平然とした顔をするしかない。私は初島君の袖をくいくいと引くと彼を促した。


「七紙さん、本当に災難でしたねえ」
タオルを手渡してくれながら初島君が困ったように微笑んだ。私は何度も小麦粉とサラダ油に粘着物質を馴染ませながら顔を拭いて、今しがたやっと粗方落とし終わったのだ。それでもなんかまだベタつく感じが取れなくて気持ち悪い。とてもじゃないが再びメークする気にもなれなかった。
だけどなぜここにサラダ油と粉があるのかというと、何もお好み焼きやたこ焼を作るんじゃなく、純粋に罠にかかる人が絶えなくてそれを取るにはこの二つが最適だかららしい。

「七紙さんのセミロングがまさか偽物だったなんてビックリしましたー」
まあね、吃驚しない方が珍しいよね。
「それに…」と初島君は口ごもり少し恥ずかしそうにもじもじとした。何とも初な感じがして可愛い。
「化粧が下手なんだなって」
それに続く呟きにこちらが驚く。
「かわいいし…」
いやいやいや、頬を染めながらそんな大胆発言をする君の方が可愛いから。
「うーん、そんなに下手かな?」
ある意味もの凄く上手いってことなんだよね。当の初島君は何も言わずに満面の笑みを返してきた。

 ───だがしかし。

このまま竹谷代理に会うのは後々困ったことになる。それに今日はこんな事態に陥るとは思いもよらなかったから、化粧道具は普段使いの物以外ほとんど持っていない。眼鏡で誤魔化そうにもやっぱりベタベタしていて使う気になれなかった。
仕方なく帰宅時の顔を描く、といっても普通に化粧したに過ぎない。毎朝七紙さんになるには舞台用のしっかり付いて崩れにくいのが売りのを使っていたから仕方がなかった。
女の子が一からメークする姿が興味深かったのか、初島君が興味津々の顔でこちらを見ていたからやりづらい。だけど気を遣ってくれたのか自分から話しかけてきた。

「それにしても、ジュンコもキミコも見つかって良かったですねぇ。一時はどうなるかと…」
「えっ、そんな女の子はいなかったけど?見つかったんだ」
「す、す、すみません。思い出させちゃって」
ブラシを持つ私の手が止まったのをみた初島君は焦ったらしい。そういえば遠くで伊賀崎さんが『ジュンコォォ、どこ行ってたんだー』なんて叫んでるのが聞こえたっけ。
「良かったじゃない、見付かって」
そういや私は伊賀崎さん本人からジュンコかキミコに似てるって言われたんだよね。伊賀崎さんが頬を赤らめていたというのは伏せて伝える。すると初島君は慌てたように両手を前に突き出して左右に振った。
「そんなことありえませんっ!」
そして拳をぐっと握り締める。
「七紙さんの方が断然可愛いですっ!」
そんなに力説されたらお姉さん照れちゃうよ。堪らず内側から体温が上がってゆき、粉で押さえたばかりの小鼻にうっすらと汗をかく。
そうかな、と初島君の剣幕に押されながら答えると、
「そうですよっ!似てるなんてとんでもないっ!だって…」
手鏡に向かってリップを塗ろうと構えた時だった。

「だって、どっちもヘビですよ?!」

手の中の口紅がポロリとスカートに落っこちた。

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