油断してたら 1


『皆でジュンコを探す“ついでに”たぶん七紙さんも見つかるだろ?!』

そんな微妙に残念な会話がなされていたとはつゆしらず、私はさし当たって必要はないもののお手洗いを探してふらふらと廊下を歩いていた。
だが、しかし。歩けど歩けど来たときに見かけたトイレへはいっこうに辿り着く気配がない。そうこうする内に一体幾つ角を曲がったのかさえ分からなくなってしまった。
どこまでも続く白い壁に挟まれて、まさか私ってば屋内なのに迷った?という焦りと、そんな筈がないという気持ちで、次第に心臓がバクバクと音をたて始め額にじわりと汗が滲む。窓から見える景色の変化で方角が解らないかと眺めてみたけど、田舎の景色は代わり映えがしない上、私の記憶力が怪しいのと相まって全く参考にならなかった。

 ───ヤバッ…私、もしかしてもしかしなくても…迷った?!

あんなに竹谷代理からくれぐれも気を付けるよう言われていたのに。今更悔やんでも後の祭だけど。今頃探されてるのかなあ、なんて抜群に天気の良い窓の外へと目を向けながらも、私の心はどんよりした曇り空へと変わっていった。

ここかと思った角を曲がると緑色の非常口のマークがついた扉に出くわす。外へ続くに違いない、と私は迷わずドアノブに手をかけた。
ズシリと重い鉄扉を押し開ければ今まで見たこともない渡り廊下に出る。心地よい風が中庭を吹き抜け、屋内の微かに異臭漂う空気とは違う久しぶりの外の空気が清々しい。それでもそこは棟と平屋の建物群を繋いでいるにすぎない。
行くか戻るか。不意に好奇心が湧いてきて、私は行く手にあるガラス張りの温室に見えなくもない建物に足を進めた。

幸い鍵は掛けられていなかったので掛け金を外して中へ入れば、ここは微妙に蒸し暑くてむせるような独特の臭気が充満していた。気温のせいか植えられている植物もすくすく育っているみたいだし。見上げればかなりの高さになるエキゾチックな植物群はよく手入れされており、ちょっとした植物園の温室並みだった。

てか、これ過剰な施設じゃないの?維持するだけでも大変そうだし、かなりコストもかかりそう。しかも一般公開してる訳でもないし、明らかにシノビの業務には関係無さそうにみえる。ふと気まぐれな会長の大がかりな盆栽っぽい気がしたけど、そんな不穏な考えは頭の片隅へと押しやった。

「どうです?見事でしょう?」
背後から唐突に声をかけられた私は飛び上がった。でもその声音は大人しそうで少し幼い響きがして。
「す、すみません。迷っている内に入り込んでしまって」
これは半分本当で半分嘘。言い訳しつつ振り向いた私は、背後に立つ少年のようにあどけない青年に視線が釘付けになった。

少しウェーブのかかった柔らかそうな髪につぶらな瞳。坊っちゃんっぽい雰囲気の彼は、不似合いな作業着に着られている感じがして結構ラブリーだ。でも何気に利発そうにもみえる。もしかしなくても彼が明日面談する予定の子の一人だろうかとしげしげ眺めていると、
「あなたが七紙さんですか」
 ───なぜ知ってる?!
「同期の黒門さんから総務に色んな意味でスッゴい女の人がいるって聞いてて…」
 ───ご名答です!

どう色んな意味でスゴイのか微妙なんですが。この子ってば可愛い顔して結構辛辣。それに伝七ちゃん、もしかして口が軽くない?いや、噂話の範疇かもしれないんだけど。
「あ、あなたは明日面接予定の…」
「上ノ島一平です」
確か東棟の研修社員にそんな名前もあったっけと思い出す。さっき藤内美ちゃんから送ってもらったデータベースの写真も、あんまりアクが強そうじゃなかったから記憶に残らなかったし。むしろもう一人の顔色が悪い子の方が可愛いし好みなもんで印象強かったんだよね。
「既にかなりの時間迷ってらっしゃるんですね」
「…えっ?!…いや…私は」
答えに窮した私を見てとった上ノ島君は観察力が鋭いのかもしれない。
「お疲れになったでしょう」と持っていた水筒からお茶を出して勧めてくれた。
なぜわかる。てか、なぜ水筒を持ってる。
「それはですね…」
彼は私からコップを受け取りながら応えた。
「僕も…小一時間迷ってるからなんです!」

 ───胸を張って言うなよー!

私はあんぐりと口を開けたまま、かなりトホホな気持ちで上ノ島君を眺めていたけど、真っ直ぐに見つめ返してくるつぶらな瞳は揺るぎない。彼はマジだ、真剣だ。これは決して冗談じゃないんだ。

「僕は大温室の管理をお手伝いしてますが毎回迷うので、竹谷代理が水筒を持たせて下さったんです」
それはそれは面倒見のよろしいことで。
「もうじき皆が探しに来てくれますから、それまで温室をご案内しますよ」
どうして、と私が不思議そうな顔をしたのだろう。上ノ島君はつぶらな瞳を瞬かせると至極真面目に答えた。
「今朝も伊賀崎さんの小さなお友だ…いや、恋人かな?脱走したらしくて。あっ、竹谷代理には内緒だった!」
しまったと慌てて口を押さえる仕種が愛らしい。まあ、いい歳した青年を捕まえていう言葉じゃないんだけど。その伊賀崎さんの小さな…お友だちというのは先ほど部屋で見付かった大山兄弟のことだろうか。それなら夢前君が閉じ込めたと伝えると上ノ島君は目を丸くした。
「よかった!大山兄弟は見付かったんですか!でも他の子が大温室周辺って聞いてて…だから僕は朝から捜索に」
なるほど、だから朝から迷ってたんですね。
一瞬「他の子」と上ノ島君が口にしたのが気になったものの話はどんどん進んでゆく。「それに…」と上ノ島君は続けた。
「夕方までに戻らなければどのみち捜しに来てくれますから」
そんな時間までここに居たくないし。だいたい竹谷代理も水筒を持たせるくらいなら携帯か何か持たせりゃいいのに。……そうだ、携帯!

 ───私グッジョブ!

何でもっと早く気付かなかったんだろう。もしかしたら上ノ島君が持ってるかもしれない。目を輝かせつつ私が尋ねると意に反して上ノ島君は困ったように眉尻を下げた。
「残念ながら…温室近辺は圏外なんです」
嘘ぉっ!今どき圏外って!
「実はセキュリティの関係で強制的に圏外になってて…」
「そっか…電波出してるんだ…」
私は黙り込んだ。そうだよね、何らかの機密を、もしそんなのがあるとしたらだけど、持ち出しても電波飛ばせなかったらいいんだよね。

「だからご案内しますよ。助けが来るまで暇でしょう?」
のほほんとしている上ノ島君は先に立って歩き出した。気温も湿度も高い空気は熱帯性の植物には心地好いんだろうけど、温帯育ちの私にとってはかなり不快だったりする。ブラウスの背中辺りが軽く汗ばんで、つくづく肉パッドを着ていなくてよかったと溜め息をついた。
だけど額に小鼻に滲む汗が痒くて、ごしごしとうっかり顔を拭いてしまい、ミニタオルにはしっかりファンデーションや黒いのがついている。ま、相手は年下の上ノ島君だからいっか、と気をとり直した。

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