最後の最後で 4
「悪いわねー、急に呼び出して」
後部座席に乗り込む北石さんに続いて私もその横に座る。ミラーに映る運転席を見て再度驚く。もう今日は何て一日なんだろう。驚いてばっかりで寿命が縮んじゃいそう。
「…ったく、先輩も大概にして欲しいよな」
「鉢屋さん!」
彼は返事の代わりに鏡の中で方眉を上げてみせた。
「一体どうなってるんです?」
「緊急時に連絡網が回ってきたってとこかな」
先輩は無事だったんですか?!
「ああ…かなり逆恨みされてるからな。ま、深追いは禁物ってことだ」
奈々子も気を付けろよ、なんていいながら鉢屋さんは車を出した。家まで送って貰えるのかと思いきや私だけ立花先輩のマンションで降ろされるってどういうことさ?!先輩が到着するまで少し離れた場所で車に乗ったまま待機していると鉢屋さんが何かのスイッチを入れた。暫しの沈黙の後、音割れした音声が流れる。
『鞍替えするとはいい根性してるじゃないのよ!』
『あのなっ!俺はあの女が部下と取引先を嗅ぎ回ってるってんで前から目を付けてただけなんだっ!』
『ワタシはアンタが余所の白塗り女に指名変えしたって聞いたから急いで飛んできたのよっ』
『違うだろうがっ!第一いつ俺が伝子さんを指名したっていうんだ!』
『嘘おっしゃい!』
『偶々一回だけ利子ちゃんを指名したけど、直ぐに他のテーブルからお呼びが掛かって、代わりに呼んでもいないアンタが来たんじゃないかっ!』
『何よ、その言い草っ!そんなこと言うのはっ、この口かっ!』
『うがぁぁぁ、ひがっ、ひゃめろっ…』
あー、会話だけ聞いてたら普通に男女の修羅場なんだけど。常務もかなり楽しんでるっぽい。
「……ってことだ。分かったか」
鉢屋さんは鏡の向こうで半目になると面倒くさそうにスイッチを切った。どうでもいいけどドッと出てきた疲れが半端ない。会話の中で『利子ちゃん』っていってた気がしたけど今はもう何も聞こえなかったことにしよう、なんて考えた。
「着いたみたいね」
北石さんの声に窓の外へ目を遣れば、猛スピードで紺色の車が通りすぎていった。鉢屋さんはそろそろと車を出すとマンションの角で私を降ろす。けれど、二人におやすみなさいと言う間もなく、何ら関係もない車のように私を残して発進してしまった。瞬く間にテールランプが見えなくなると湯上りの身体に夜の寒さがことのほか強く感じられた。
「じゃ、奈々子ちゃんよろしくー」
離れた場所にいる車の運転席から聞き慣れた声が聞こえる。ドアが開いて立花先輩が降り、つかつかと私に近寄ってきた。そして先輩は私の腕をとると振り返りもせずにオートロックを開けて中へ入ってしまう。私だけ振り返れば山田さんと尾浜さんが車内から小さく手を上げ合図をし、そのまま走り去った。
エレベーターホールで突如立花先輩が立ち止まる。こちらを向いた先輩はいきなり私にしがみついた。
「すまなかったな」
消え入るような声でボソリと呟く先輩の服からは煙草の匂いがうっすらと漂っている。先輩が落ち着くように背中を撫でつつ時計を見遣れば、既に日も変わってかなりの時間が経っていた。
ふと『家に帰るまでが遠足です』といった小学校の頃の校長先生の言葉が浮かんだけれど、それはまるっと無視をして私の長い一日はようやく終わりを告げた。