平行線 2
程なく賑やかな通りに入ると、竹谷と私は離れて歩き一見連れとは分からないように注意した。派手な私は難なく往来の人々の目を惹き付けながら、目指す宿を見付けるとその前で客引きのしなを作る。適当な男が引っ掛かればその男が注目の的となるから、その隙に竹谷は遊びに来た若者として難なく表から入れるだろう。中で誰と落ち合うか聞いていないが、忍たま五年ともなればそれくらいの仕事は問題ない筈だ。
私は声を掛けてきた中から一番当たり障り無さそうな男に見当を付けると、眼差しで誘い相手の腕をとって宿の門を潜った。肩越しに竹谷の様子を窺えば、意外にも心配そうな面持ちでこちらを一瞥し目を逸らす。そんな顔をすれば辺りに潜む敵に見付かりはしないかと気が気ではない。またもや私は竹谷に苛立った。
清潔な身なりの男にしなだれかかった私は、部屋に入ると案内の年増女に飲み物を頼んだ。適当に酒でも薦めそれに一服盛って逃げればいい。私は美しく口許を緩めながら傍らに座した男の膝にそっと手を添わせた。すると男はビクリと身体を震わせるが、明らかに事を前にした武者震いではない。
「ここまで来ておきながら初なお方」と嬉しそうに媚びた表情を作ると、私は再びその男の肩にもたれ掛かった。
「お前、馬鹿か…」
頭上から降り注いだのは私を嘲笑う聞き慣れた声。でもそれはどう見ても目の前の優しげな微笑みを浮かべた男から響いてきて。
「……まさか」
男は目を細めると片方の眉だけ器用に持ち上げてみせた。そのあまりにも見覚えのある仕草に堪らず地声が漏れてしまう。
「さっ、何であんたが?」
「常識で考えりゃ分かるだろうが」
「……谷から聞いてないよ」
「んなこと、ペラペラ喋る奴いないだろ。察しろ、馬鹿」
腹の底から沸々と怒りが湧いてくるのは、この男、鉢屋三郎の物の言い方のせいだ。でも傍目からは艶やかな雰囲気を漂わせた男女の他愛ないやり取りにしかみえなかっただろう。
確かに竹谷の補習に三郎が助っ人に来る事態は大いに有り得た。結果が成功であれば何だって構わないのだから。
赤の他人の姿をした三郎が私の首筋にゆっくりと顔を埋めてきた。吐息が肌に当たって妙な気持ちになるが、この方が話し易い。
「だったら三郎が女装すりゃ良かったのに」
「あのなあ、りく。考えてもみろ。色街の者は人間を山ほど見てんだぞ。下手な小細工なぞ簡単に……」
ふと見張られている気配に身を固くする。無論、三郎も気がついたことだろう。三郎が耳元でそっと囁いた。
「悪いな、りく」
首に吸い付く湿った感触に目を見開く。触れる偽りの髪の毛がくすぐったく感じられた。仕方なく私も三郎の背にそれらしく腕を回して応えながら、障子の外を窺う。少し間を置いて一尺程の隙間がそろりと開くと酒器の乗った盆だけが差し入れられた。
「こちらに置いておきますね」
先程の年増とは違う若い女の声がした。礼をいえば気配は間もなく遠ざかっていったが、彼女が部屋の様子に聞き耳を立てていたのは間違いない。もっとも開けてはならない最中もあるから、ここの女中としてはいた仕方ないことかもしれないが。
ようやく三郎と私は一息吐いた。
「…谷、大丈夫かな」
「心配すんな」
三郎は再び周囲の気配を探ると私に言った。
「りく、衣は変えられるか?」
私は黙って頷くと帯に手を掛け一気に引き解いた。が、三郎がこちらを見詰めたままだったから思いっきり怖い顔をして一睨みする。三郎は渋々目を逸らせた。
「別に減るもんじゃあるまいし。大体その成りで…」
「それとこれとは別」
着ていた艶やかな装束を裏返すと一転して地味な色の小袖になる。女物のこれは特別あつらえの物だ。私は髷を解き三郎から差し出された濡れ手拭いでさっと顔を拭って化粧を落とすと下働きの娘に姿を変えた。流石変装を得意とするだけあって、三郎は普段からこうした小物を持ち歩いているらしい。
支度を終えた私たちは日が暮れるまでここで待つか、即刻宿を後にするかは竹谷の出来次第だった。
「りく、八左ヱ門から詳しい話を聞いているか」
私は首を左右に振った。
「じゃ半刻経ったら私を厠に案内しろ」
「精々四半刻で済むんじゃない」
軽口を言えば憮然とした三郎が額を小突いてきた。
「真面目にしろ」
「あんたに言われるとは思わなかった」
竹谷とは然したる打ち合わせをしなかったから、それ程難しい役目ではないと思われた。だが依然として竹谷からの合図はなく次第に胸の奥が騒ぎ始める。とはいえこの宿に何処かの城の息がかかっているという噂は、今まで聞いたことがなかった。それでも用心するに越したことはない。私と三郎は外の気配を窺いながら、かといって余りに静かすぎても訝しく思われるため、適当に会話をしつつ時に矯声を交えながらその半刻をやり過ごしていた。
「八左……が気になるか」
「何、その勿体ぶった言い方」
「へえ、りくは気にならないのか」
「別に……」
「本当に可哀想な奴等だな」
「誰がさ」
「お前ら二人ともな」
下らないことを話しながらも隙のない三郎は注意深く部屋の周囲の気配を探っている。もちろん私も同じようにしているのだが、平素ののらりくらりとした態度と違ってこんな時の緊張感漂う三郎は鋭利な刃物のようで惚れ惚れとさせられた。
「よし、行くか」
立ち上がる三郎に私は小声で伝えた。
「ちょっと。私、厠の場所知らないよ」
三郎は馬鹿にしたように半ばまで瞼を閉じると、音には出さずに「そんなことも知らんのか」と唇だけを動かした。私はムッとしつつ反論せずにはいられない。
「方角から見当はつくけどさ、見取り図だって見ちゃいないんだし。第一、女中がまごまごしてたら変じゃない」
「……縁側を回ると一番端にたたきがあって庭に出られる。途中右に曲がれば厨へ通じ、厨は勝手口に繋がる、どうだ」
そもそも私は竹谷に頼まれて一緒に街に来たのに。だがこんなにも予定外の話ばかりが重なれば、もしかしたら私がシナ先生から試されているのかもしれない。或いは考えたくもないけど竹谷と私の二人が揃って補習。
「大体どうしてそんなこと三郎が知ってんのよ。試験を手伝ってる訳でもないでしょ」
そう口を尖らせてやれば、三郎はただニヤリとしただけだった。腹の立つこと甚だしい。大方私はモテるからとでもいいたいのだろう。私は女中に見えるよう盆に乗ったまま床へ置き去りにされていた酒器を持つと三郎より先に部屋を出た。
俯き加減ですれ違った者と顔を合わせないよう廊下を歩く。後ろからついてくる三郎は鼻唄混じりで呑気な男を演じていた。
縁側の端まで来ると三郎は便所用に置いてある草履を履き厠へと向かった。その後姿を見届けた私は適当な部屋の前にそっと盆を置くと、いかにも客からお使いを言い付かったかのように厨の勝手口から裏へ出れば終わりだ、そう考えながら角を曲がった。
「見かけないな。新入りか」
物陰からぬっと出てきた黒い影。然程気配を感じられなかったのは私が油断していたせいだろうか。三郎とは既に別れてしまった後だけにより一層悔やまれた。