この季節の変わり目に 1


梅雨も終わりに近づき次第に暑さが本格化し始めた頃だった。授業も昼までに終わるため半ば学校があってないような日々が続き、生徒は皆夏休みを前に浮き足立っている、そんな独特の空気が漂う時期だった。俺はこんな学校中が緩んだ雰囲気は嫌いじゃない。むしろ大歓迎だ。ただ一つ難点があるとすれば俺が転校して初めて口をきいた隣の席の女の子、七篠さんに会えなくなることだった。
七篠さん、いや俺の心の中では既に『奈々ちゃん』なんて親しげに呼んではいるものの、実際に下の名前で呼ぶには未だに何となく気がひけた。単に俺が意識しすぎなのかもしれないが、天然しかも括弧付きで「たらし」とまでいわれる俺にしては珍しく、彼女に対して一歩引いたまま接していた。

初めて奈々ちゃんに会ったのは、新学期が始まり転校生として俺がA組の面々に紹介された日のことだった。そしてその年度初のHRの時間、お決まりの委員会と学級委員の選出で、あろうことか転校生の俺が学級委員長に選ばれてしまったのだ。最初は新手のイジメかと思ったものの、どうやらこんな面倒な役などやりたくないという連中が一見人の良さげな転校生の俺に、これ幸いと押し付けたのが真相らしい。
この学校のことは一切解らないのに、担任のオッサンも何も言わないとは一体何なんだよと沸々とした怒りを抑えつつ、同時に俺はこの学校でやっていけるのかという不安を抱き始めた矢先だった。隣の席に座っていた七篠さん、いや奈々ちゃんが憮然としながら俺に向かっていった。
「尾浜君・・・いきなり最悪だよね。ごめんね」
彼女は俺を指名した首謀者の男子を目で追いながら、うんざりだと言わんばかりに顔をしかめてみせた。そういえば横の席の奈々ちゃんは学級委員長を選ぶとき俺に手を挙げていなかったっけと思い出す。
「アイツら一年の時からあんな感じなんだよね。悪気はないんだろうけどお調子者だから」
そして小さなため息をふうと漏らすと再び俺の方を向いた。その拍子に彼女の黒髪が肩の辺りで揺れた。
「解らないことは聞いて。私なら他の子に聞き易いし」
奈々ちゃんは黙り込んでいた俺に向かってそう口にした。もっともその後に、「あ、聞くのは勉強以外のことね」なんて続いたのはご愛敬だったけど。でもその時の俺は突然のことに驚いてお礼をいうのがやっとだった。気落ちした様子を出さないよう俺はいつもと同じ緩んだ笑みを浮かべてはいたものの、奈々ちゃんの言葉にどれ程ほっとしたことだろう。もっとも彼女はそんな会話があったことすら覚えちゃいないかもしれない。

だけど彼女と接するうちに、困っているときに声をかけられたのは俺だけじゃないことが解ってきた。悔しい話だが、よくよく見ていれば男子のしかも転校生だから親切にした訳ではないようで、奈々ちゃんは普段から誰に対しても似たような感じだった。元々あまり人にベタベタしない質の彼女だから特別にキャラを作っている風でもない。どうやら彼女が気になった時に気がかりな人へ気さくに声を掛けるのは素でやっていると思われた。
ともかくそれ以来俺は奈々ちゃんがその他大勢のクラスの女子とは違って見えるようになった。何というか彼女だけ他の女子よりクッキリと鮮明に見えるというか、他の女子はぼんやりぼやけているというか、正直どうでもいいというか。兎に角そんな感じに近かった。

誰一人知り合いがいないのに委員長に選ばれた気の毒な転校生。奈々ちゃんからはそんなふうに思われていた俺だったが、実はクラスの中に一人だけ知り合いがいた。もっともそうそう頻繁には助けてくれそうにないヤツだったが。
そいつは寡黙でイケメン、少々ダサいが真面目な秀才君である久々知兵助という男だった。実は久々知と俺は中二まで同じ学校に通っていた。俺は親の転勤に伴い暫くこの地を離れざるを得なかったから、楽しい思い出が沢山あるこの町にまた戻ってこられるとわかったときは本当に嬉しかった。
その久々知によれば隣の組には中二で別れた遊び仲間、鉢屋と不破と竹谷の三馬鹿がいるという。後日、その中の鉢屋とは学級委員長の集まりで頻繁に顔を合わせることになるのだが。
もっとも三馬鹿だったのは中二の頃の話で、今では学年でもちょっと目立つイケてる男子集団になっているらしかった。もちろんこれはそういった女子の噂に疎い久々知経由ではなく、隣の席の奈々ちゃんから聞いた話だ。もしかすると彼女もその目立つアイツ等が気になっているのかと思ったが、案外そうでもないらしい。俺としては好都合なことに、どうやら奈々ちゃんは自分のことを目立たないモブ女子の一人と考えているらしかった。

程なく俺がクラスで浮いていた久々知と仲良くなり、もちろんそれは昔の友人関係を再認識したに過ぎないけれど、その延長で学年でも目立つ鉢屋達とつるむようになると、俺に学級委員長を押し付けてきた奴等は何も言わなくなった。そしてA組にすっかり溶け込んだ頃より、俺は他クラスの女子から告られるようになった。その都度俺は似たような答えを返していたけれど、かえってそれが良くなかったのかもしれない。悔しいかな誰とも付き合っていないのに、次第に俺は「たらし」と呼ばれるようになってしまった。

「ごめんね。今は友達と遊ぶ方が楽しいんだ」

健気にも震える手を握り締めうつ向きながら耐えているその女の子が可哀想に思えて、一瞬付き合ってもいいかななんて考えることもあった。確かに相手から告られた恋愛なら俺が優位に立てる。でもそんな小賢しいことはしたくないし、同情心から好きでもない子と付き合うのは躊躇われた。だが時々こんな子もいて俺は大いに困惑した。

「悪いけど、俺、好きな人いるから」

学内の美人グループに属するこの女子は勝ち気な性格なのか、俺が正直に答えても気落ちした様子一つ見せなかった。
「そっか。でも私、頑張るから」
漫画みたいな台詞を耳にした俺は面喰らった。だけど確かに可愛いから自分に自信があるのだろう。

 ───いい加減空気読んでくれないかな。

そんな彼女に向かって眉を下げ弱り顔をしてみせる俺は、彼女以上に性格が悪いのかもしれない。傍目には人が良さそうに見える俺がこんなことを考えているだなんて、きっと彼女は想像すらしないだろう。去り際に残された「ありがとう」という言葉に、「振ったこと後悔するから」という言外の意味が含まれている気がして俺は辟易とした。
だがその話を聞いた三バカの一人である竹谷は、
「勿体ねぇことするよな、勘右衛門は。あの子カワイイのによ」なんて口を尖らせていた。でも俺は余計なことに時間を割きたくなかった。何故なら俺は自分のことで精一杯だったから。

そんな俺は奈々ちゃんと席が隣同士だったため、次第に色んな話をするようになった。というよりむしろ、そうなるように俺が仕向けた。
幸運なことに当初は取り寄せの教科書が間に合わなくて、俺は暫く奈々ちゃんに教科書を見せて貰っていたのだ。けれどこの学校で使う本は前に使っていた出版社の物より簡単だったから、別に本など見なくたって俺としては全然問題がなかった。だから教科書を見る振りをして気付かれないよう注意しながら、ずっと奈々ちゃんを見ていた。時々あんまり見すぎて不審に思われそうになって慌てることもあった。

「・・・・・・尾浜君、頁捲っていい?」
「あっ、い・・・・・・、いいよ」
「ごめん、まだ見てた?」

 ───もちろん見てるよ。奈々ちゃんをさ。

などと俺が答えられる筈もなく。こうして奈々ちゃんの間近にいれば、春風が彼女の髪からシャンプーの香りを運んできて、その度に俺の頭はクラクラとした。

残念ながら教科書が届くとその至福の時間は終わりを告げたが、今度は俺が奈々ちゃんの苦手な教科を教えるという機会に恵まれた。既に気軽に話せる仲になっていたから、席順に回答するとき答えが解らなかったりすると、奈々ちゃんは横から俺に目線を送ってきた。困り顔で俺の様子を探るような眼差しが小動物っぽくて何とも可愛らしかったから、その都度俺の頬も緩んでしまうのだった。

「おーい、兵助いるかー?!」

奈々ちゃんと俺はそんな感じで日々淡々と過ごしていたが、時々耳慣れた快活な声が廊下から響いてくるとA組の女子が一斉に熱い眼差しを送ることがあった。休み時間にB組の竹谷がずかずかA組の教室に入り込んできては、久々知に教科書を借りに来るのだ。竹谷はほとんどの本を学校に置きっぱにしている上、まだ一学期だというのにもう無くしたのだろうか。それに竹谷はあの馬鹿デカい白のエナメルバッグを何のために持ち歩いているんだか。
幸いなことに一年の頃からの習慣で竹谷が何か借りるのは久々知と相場が決まっているようで、滅多に俺の席へ来ることはなかった。だがその度に気の毒な久々知が竹谷に文句を言う声が耳に届いた。
「八左ヱ門、汚すなよ。なくすなよ」
「いいじゃねえか。もう色んなマーカーで充分汚れてっだろ?」
「馬鹿ヤロっ、それは書き込みっていうんだよ!」

そんなやり取りは耳の端を通しながら、俺は幸せな気持ちで奈々ちゃんが理解できていない部分を教えていた。我ながら多少ありがた迷惑かもしれないと感じつつも、奈々ちゃんが快く「ありがとう」なんていってくれるもんだから、俺は調子に乗っていたのかもしれない。

いつものように席に座る奈々ちゃんの方を向きながら、俺は自分の机に尻を乗っけて立っていた。だが今日の奈々ちゃんはあまり乗り気じゃなさそうでベッタリと机に突っ伏していた。というのはヒントを出せば大抵何とかなる彼女だったが数学だけは見るも無惨な点数で、明後日の放課後に迫った追試も大して期待できそうにないからだった。正直なところ俺も彼女もこれは夏の居残り組入り間違いなしだろうと半ば諦めかけていた。

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