湯治場 5
一瞬だけごチュー意な展開です
「だからそうむくれるな。儂だってワザとじゃないんじゃし」
深雪は風呂から戻って以降背中を向けたまま利兵衛とは口をきかない。いくら利兵衛が厚かましい質だとはいっても、こんな狭い部屋では流石の利兵衛も息が詰まってしまう。今度ばかりはちとやり過ぎたか、と利兵衛は髭を弄りながら深雪に再び声をかけた。
「大したことじゃなかろ?おぼこじゃあるまいし」
深雪の肩がビクリと揺れた。勢いよく振り返るとキッと瞳鋭く利兵衛を睨み付ける。
「どうしてそう人の気持ちを逆撫ですることしかできないんですっ」
「そんなに大声を出せば話が筒抜けになるぞ」
深雪は唇を噛み締めた。
「だいたい利兵衛様も不注意ですっ!あんな所であんなもの落とさないで下さい」
怪訝な顔をした利兵衛は深雪に向かって見せてみろと掌を差し出した。深雪は懐から例の子供の手程もある鱗のようなものを取り出す。それは湯槽で見たときと変わらぬ輝きを保っていた。
暫く試すすがめつ鱗に似たそれをあらゆる方向から眺めていた利兵衛は、乳白色のそれを深雪の手の平に戻した。
「それは儂じゃない」
深雪は目を丸くする。
「では何方の…」
「ここの湯は優れた効力があるからの。それはこの湯に時折入りに来る…」
そこまで口にした利兵衛は突然押し黙った。そして明後日の方向に視線を泳がせながら何やらぶつぶつ呟き始める。いや、違うか、利兵衛は顔を上げた。そうか、じゃろうな、と独り納得する。そして改めて深雪の方へ振り返った。
「ここいらの主が出掛ける際落としたようじゃ」
温泉から出入りするのかと深雪はその姿を想像する。さぞや派手な出来事が起こるに違いない。突如温泉が吹き上がり突風でも吹くのだろうか。
「女将に温泉の主の祠へ納めるよう言っておけ。無ければ作って祀れと、な」
深雪は利兵衛にかしずくと部屋を後にし、女将を探しに外へ出た。辺りは夕暮れが迫り次第に宵闇がこの世を支配し始める。そんなほの暗い時の中、紙に包まれた鱗が清々しく煌めいた。
部屋に戻った尊奈門はぼんやりとしていた。ときたま風が来ては濡れ髪をひんやりと冷ましてゆく。別に自分だって女性の肌を知らないわけじゃない。もうそんな青い歳でもない。でも抱き止めた身体は滑らかで柔らかく、思い起こせばカッと頬に熱が集まる。湯に染まり薄紅く色付いた白い肌の残像が、目を閉じても頭から離れてくれなかった。濡れた手拭いで顔を冷やせば少しは冷静になれるだろうかと手にしてみるが、湯の華に滑った彼女の身体から外れ裸身が見えたことを思い出させる小道具に過ぎなかった。
「そんなつもりじゃない…」
只の、少年の終わりの日に見た夢だったのに。
「どうした?さっきから溜め息ばかりじゃないか」
昆奈門の穏やかな声にハッとする。お頭のことだ、何もかもお見通しなのだろう、尊奈門は覚悟して面を上げた。
「どうかしたの?」
「お頭は……もう何もかもご存知なんでしょう?」
尊奈門が観念したように頭を振ると昆奈門は包帯の隙間から覗く目を細めた。
「私も好奇心が強いからねえ…。いわれたよ、…関わるなって」
尊奈門がその丸い目をさらに丸くして瞬きをした。
「つまりだね…。不思議なことはそのまま置いておけってことさ…」
息を飲んだ尊奈門を優しい眼差しで見つめながら昆奈門は続ける。
「あの鱗だって何の鱗か知れたもんじゃないしね」
聞くなってことだよ、と唖然とする尊奈門の顔を覗きこんだ。女将が置いていった頼りない灯火が微かな風に揺らめいた。
その日以降、利兵衛達と尊奈門達が顔を会わせる機会が極端に減った。遠目には見掛けるから、まだこの宿に泊まっているのだと分かる。だが、この狭い敷地の中どこをどうすれば顔を会わせずに済むのか、忍びの者である尊奈門や昆奈門ですら皆目見当がつかなかった。
その日は少し冷え込んだせいか靄の濃い朝だった。日が昇り伸ばした手の先がようやく見えるようになった頃、尊奈門は辺りの様子見に外へ出た。
「尊奈門…さん」
久しぶりに聞くその声の主に思わず胸が高鳴る。我ながら忍玉の年齢じゃあるまいしと思うのに、なかなか気持ちの整理がつかなくて困惑していた。だが、尊奈門はあの日昆奈門に言われた通り己の中では懸命に距離を置こうと努めていた。
「…久しぶり、ですね」
深雪がクスリと笑った。我ながら滑稽になるが本当に久しぶりなのだから仕方がない。
「初日以来顔を会わせないから不思議に思っていました」
そう答えた尊奈門に深雪は何も答えずただ微笑んだだけだった。
「私共は今宵帰ります」
「そうですか…寂しくなりますが道中お気を付けて」
そう返しつつ、こんな山道を、それも日が落ちる間際から出発するというのだから、自ずと正体を明かしているようなものだと尊奈門は考えた。
「どちらへお戻りになるんですか?」
やはり深雪は何も言わない。何処へ行くのか、彼等はまた宛のない旅暮らしをするのだろうか。それとも、いや案外今は居所が定まっているのかもしれない。というのは昔見た旅装ではなかったからだ。だが、そう気付いた途端、尊奈門の胸がチクリと痛んだ。おそらくはその定まった居所に住まう者の中にいるのだ。
あの日、湯殿で深雪を揶揄した利兵衛が口にした少年とおぼしきその名前を、尊奈門は忘れることができなかった。確か『八某』と爺様はいっていた。一体、あの深雪が気に掛けるようなガキとは、どんな人物なのだろうか。いや、少年というよりもむしろほぼ大人の男といってもいいのかもしれない。尊奈門はまだ見ぬその少年に対し鈍く燻ぶる置き火のような苛立ちを隠せなかった。
もし、その少年に会うことがあればついでに確かめてやろう。無論、尊奈門にはその彼をどうこうしてやろうという気は毛頭ない。ただ少しからかってやりたい、そんなことを考えていた。
何もない山奥だからいつもなら一日が長くて仕方がないのに今日に限って時間は飛ぶように過ぎてゆく。周りの木々も景色も何一つ変わっていない。ただ影の落ちる方角だけが回り込みながら次第に位置を移していった。
もしかしたら深雪に会うのはこれが最後かもしれない。そう思うと何故か尊奈門は落ち着かなくて、何をするにも気持ちが入らず疎かになってしまう。幸いなことに昆奈門は見て見ぬ振りをしてくれた。
「若い日は苦いものだよ、ねぇ?」
誰に聞かせる訳でなく縁側でぼんやり寛ぐ昆奈門がぽつりと呟く。そして日向で洗濯物を取り込む尊奈門の姿を眩しそうに目で追った。
ますます日が傾いて夕暮れが近くなる。居ても立ってもいられず尊奈門は深雪の姿を探しに外へ出ていった。薄く長い影が頼りなく地面に落ちて、山際にある太陽が尊奈門の頬を赤く染めた。
気配を感じて目を凝らすと、藪向こうの下の道に白馬の姿が見え隠れしている。と同時にそれの鼻息も聞こえた。小道を回り込めば藪の向こう側へ出るが、それでは時間がかかってしまう。尊奈門は藪を突っ切ると急な斜面を下っていった。
突然藪が動く音に驚いて深雪は振り向いた。白金もじっと一点を見つめている。だが暴れださないところをみると猪や熊の類いではないようだった。深雪は馬と共に音のする方向へ静かに注意深く目を向けた。
ガサリと一際大きな物音をたてて突然現れた人物に、深雪はただ黙ってその場に立ち尽くす。来る、そんな気はしていた。だが信じられなかった。だから尊奈門がそこに立っているのを不思議に思いながら彼の姿を眺めていた。
全ての動きが恐ろしいほどゆっくりに感じられて、まるで遥か昔テレビや映画にあったスローモーションを見ているかのような心地がした。もうテレビなんか何年も見ていないのに、そんなことを考えながら。
ふわりと人の温もりに包まれて深雪の背中に腕が回される。逞しくなった胸に押し付けられ、そして少しかさついた柔らかい何かが深雪の唇に触れる。その刹那深雪は反射的に瞼を閉じた、だが。
───違う。この匂いじゃない。
目を見開くと深雪は両手で尊奈門の身体を精一杯の力で押し返そうとした。でも流石に忍びとして鍛えているだけあって、びくともしない。ごく僅かに開いた隙間を懸命に保ちながら深雪は尊奈門に離してくれるよう訴えた。
「尊奈門、さんっ。離して」
「……行ってしまうのでしょう?」
切なそうに目を細める尊奈門の姿が十四歳の頃の彼の姿と重なり合って時が戻ったように感じられた。そしてその十四歳の尊奈門が、いま十四歳の八左ヱ門の姿と重なり合う。
「もう、会うことはないのでしょう?私と…」
そう囁いた尊奈門が時を経て成長した八左ヱ門の姿を深雪に見せたような気がした。あの少年、八左ヱ門も尊奈門と同じ科白を言うことになるのだろうか。
情の篭った眼差しを尊奈門に注ぎ続ける深雪だったが、一見彼を見つめているようでいて実はもっと遠い誰かに想いをはせているようにみえた。それを察した尊奈門の腕からほんの僅かに力が抜けた。
深雪がそっと尊奈門の頬に手を添えたものの、彼女の指先は血の通ったこの世の者とは思えぬほど冷え切っていて、熱の集まる尊奈門の頬とは違いあまりにも対照的だった。残酷だが尊奈門にはそれが二人の生きる場所を端的に示しているように感じられた。同じことを考えているのか深雪が切なげに瞼を瞬いた。
「もし…、もし、縁があれば、また会えるでしょう」
馬が穏かにいなないた。その声に深雪も、そして尊奈門も一挙に我に返ると、何かで弾かれでもしたかのように慌てて互いの身体を引き離した。とうに夕日は山の下に隠れていたが、まだ残照が空に映え残っている。
「行きなさい、尊奈門さん。もうじき魔の刻に入る。山の魔は街のそれとは違うから」
不意に厳しい口調になった深雪に尊奈門は僅かに目を見開くと彼女の手を引こうとした、だが深雪は首を横に振った。
「私なら大丈夫…」
「さあ、早く」と打って変わって厳しい口振りになると深雪は再び尊奈門を促した。尊奈門は何か言いたそうに一度だけ振り返ったものの、ゆっくりと左右に首を振った深雪の姿を目にして観念したのか瞬く間に姿をくらました。
辺りの闇が益々濃くなり、どこからともなく濃い霧が湧いてくる。深雪は鞍を置いた白金の手綱を取るとゆっくり歩み始めた。いつの間に合流したのか、傍らには利兵衛も佇んでいる。利兵衛は一言「戻るぞ」とだけ深雪にいうと老人とは思えない身軽さで鞍に跨がった。霧はさらに濃くなり二人と二頭の影を包み込んでいった。
にわかに湧いた霧を訝しく思っていた昆奈門は、無事戻ってきた尊奈門の姿を見るや安堵したのか微かに目を細め、その側へと駆け寄った。そして何も言おうとしない尊奈門の背にそっと手を添えてやる。既に霧の晴れた空には雲一つなく、寂しげな月がぽつんと浮いているだけだった。