湯治場 4
温泉でお約束の破廉恥な展開にご注意!
そんなことを、ぼんやり思い出していた尊奈門は、不意に湯の中がきらりと光ったような気がした。だがその時は傾いてきた陽の光の加減だろうとあまり気にも止めなかった。
しかし日射しに揺れる湯とは違う輝きがもう一度湯槽の底のほうから煌めくと、不思議に思った尊奈門は何かが光る辺りへ手を伸ばした。
少し濁った湯の底を指先でなぞる。石とは違う感触を探り当てると、湯に流されないよう注意深くそれを拾い上げた。
これは一体なんだろう、と尊奈門は手にした薄いそれをしげしげと眺めた。透き通っていて何かの鱗のように見えるが、子供の掌ほどの大きさがあって、その上虹色に光輝いている。こんなに綺麗なものは生まれてこの方見たことがない。
「どうかしたの?」
尊奈門の様子が妙なことに気づいたのか、深雪が湯を掻き分けながら尊奈門の方へとゆっくり近付いてきた。温泉で上気して少し血色の良くなった深雪の白い身体に、尊奈門の心臓が大きく跳ねる。思わず声が上擦った。
「うわっ。…いや、…その。こんなものが落ちてたんです」
「お湯に?」
はい、と尊奈門は深雪にそれを手渡した。同じくそれをじっと眺める深雪に尊奈門は「深雪さんは見たことありますか?」と尋ねてきた。
「……綺麗ね」
深雪は複雑な顔で呟いた。そして尊奈門をじっと見つめると、利兵衛様に見せてもいいかと小首を傾げた。尊奈門はその仕種にまたどきりと胸が高鳴って、気づいたときには首を縦に振っていた。
「利兵衛様ならご存知かもしれないし」
確かにあの爺さんは深雪よりその手のことに詳しそうだ、と尊奈門は同意した。万が一、善からぬ何かでタソガレドキに災厄をもたらすものなら、それこそ取り返しがつかない。というのも根拠はないが尊奈門はそれを拾い上げたときから、この世の物ではないと確信していたからだった。だが、もしそれに聖邪があるとしたら邪の物ではないような気もした。
深雪はまだぼうっと輝く薄いそれを岩風呂の縁に置き、「お先に失礼します」と湯から立ち上がろうとした。全くよりによって利兵衛様はとんでもないものを落としてくれた、バレたらどうするおつもりだろう、と顔では尊奈門に微笑んでは見せたものの深雪は内心穏かでいられない。早く利兵衛様に渡して何とかして貰わねばと心だけ先に行っていた。
とかく温泉というものは例外なくどこもかしこも滑りやすい。特にここの温泉は湯船の底石にびっしり付いた白い湯の花と緑色の温泉藻で一際ぬるぬるとしていた。あれ程女将から言われて、深雪自身もよくよく気を付けていたにもかかわらず、湯の花に足を取られ「きゃっ」という悲鳴と共に水飛沫が舞い上がる。だが滑った深雪は岩にぶつけて痛みを感じるより先に、何か柔らかいものに横から受け止められていた。もしかしなくても想像通りの事態が恐ろしい。さすが尊奈門は忍者だと思うものの、深雪は恥ずかしさのあまり目が開けられなかった。
「…あ…あのっ、私は」
戸惑う尊奈門の声に深雪は相変わらず目を閉じたままだった。
「な、な、な、何も見てませんからっ。私なら大丈夫ですからっ」
それはないだろう。確実に受け止めているのだから。第一、尊奈門が動揺していること自体が雄弁に物語っている。旅の恥は何とやらというが正直一生の汚点に近い。上がろうとした際、一応手拭いで前を隠してはいたが今はそれさえ怪しかった。
だがいつまでもこうしてはいられない。深雪が恐る恐る目を開ければ、尊奈門は少し頬を染め顔を横に向けていた。十九歳ともなれば女を知らない筈はなかろうに。十四歳でも既にませているのが深雪の周りには沢山いる。よく知る誰かのように自信ありげに深雪を抱きかかえフッと笑みを漏らす、なんてことをしないのが尊奈門らしいところだろう。
尊奈門は深雪を抱き支えていた腕を抜くと、自分の膝からそっと下ろした。横目でちらりと尊奈門の様子を盗み見れば、尊奈門も深雪の様子を窺っていたようで互いの視線がぶつかり合う。
目を逸らせば逆に危険な気がした深雪は、じっと尊奈門を見つめた。動物、熊か何かに遭遇した時の逃れ方にこんなこと書いてあったっけ、と無駄な知識が脳裏をよぎる。気のせいか尊奈門の顔が少し近づいたようなその時。
「お客さーん、三ノ湯の加減は如何ですかー?」
女将の声に二人ともびくりと身体を震わせると、水飛沫を上げながら勢いよく距離を取る。端から見れば逆にわざとらしく見えたかもしれない。
「とってもいいお湯でしたよー!」
我ながら白々しいと思いつつ深雪は逃げるように湯槽から上がると、脱衣場へ走りたいところだがまた転ばないよう慎重に足を進めた。はたと紙人形と例の物を忘れて来たことに気付くが、服を着てから取りに行けばいいと開き直った。ここにいる間に何度恥ずかしい思いをするやら、と深雪は目眩がする心地になった。
ゆっくり浸かれるのは今だけ、と脱衣場で笑う女将がニヤと妙な笑い方をしたのが気になった。深雪はろくに身体も拭かずに小袖を着込むと、慌てて忘れ物を回収して部屋へ逃げ帰った。だが後に一人残された尊奈門は意味ありげに笑う女将に捕まって散々な目に会っていた。
「あんたと儂は趣味が合うのう」
「私は部下が心配だったのでね」
温泉を見下ろせる高台に二つの人影。方や背が高くがっしりとした大男、一方はさほど背丈のない痩せ型の老体が木陰から覗く。
「だが、あんたじゃろ?わざわざ同じ時刻になるよう仕組んだのは」
「それは買いかぶり過ぎってものですよ。偶々です、偶々」
「ま、儂は面白かったから構わんがな」
昆奈門が探るように利兵衛を盗み見ると、その老人は昆奈門を何とも言えないじっとりと湿った奇怪な笑みで見上げていた。周りの湿度が高いのは温泉のせいだけではないと昆奈門には感じられた。昆奈門も包帯の隙間から覗く目を三日月のように細める。
「私も楽しませて貰いましたよ」
そういって老人を見下ろした。利兵衛は全くもって喰えない男だと鼻を鳴らした。
「ふん、タヌキが」
「貴殿もでしょう?いや貴方の場合はタヌキというより…」
利兵衛の瞳が鋭く光った。老人のものとは思えぬ力強い声音が厳かに響く。
「関わるな、それがあんたの信条じゃろう?人智を超えたものは素直に受け取り、以後関わらない、違うか?」
昆奈門は僅かに瞳を動かしただけだった。
「それでよい」
風向きが変わり湯煙がこちらへと押し寄せる。一寸先も見えぬほど濃い水蒸気はむせるほど強い硫黄臭で、息を止めた昆奈門でさえ咳こんだ。それを吹き飛ばすかのように、清々しい風が谷間を吹き抜ける。
濃霧のような煙が晴れると昆奈門の傍らにいた老人の姿はどこにも見当たらなかった。