湯治場 3
縁側で涼んでいた利兵衛が世間話でもするような調子で声を掛けてきた。
「あの男はなかなか鋭いな」
着替えを畳んでいた深雪は顔を上げた。午後の日射しが力強く宿の周囲に生い茂る木々を照らしている。
「湯殿にいた男よ。それとなく斜に見ては儂の足を確かめとった」
深雪は眉を寄せた。相手を斜に見たり障子に落ちる影や水面に映る姿など何かを介して確かめるのは、それがこの世の者かどうか確かめる手立てだったからだ。
「今更仕方がありませんね。どうされるおつもりです?」
「なぁに、どうもせん。これで退屈せぬわい」
利兵衛は部屋にいる深雪に振り返った。
「お前さんも襲われたくなかったら明るい内に入るかお女将さんと行ってこい。折角湯治場に来たのだから勿体無いぞ」
利兵衛のいうことはもっともだ、と深雪は部屋を軽く片付け着替えを持って部屋を出た。万が一という懸念があるのだったら、いっそのこと童子を連れてくればよかった。紙人形と留守番するよう言い聞かされた彼は、駄々をこねはしなかったものの珍しく不服そうにしていたからだ。連れてきてやれば喜んだかもしれない。
だが不満を表せるようになったとは随分進歩したものだと思う。童子も少しずつだが人の情や人の心を会得しつつあるようで、深雪はそれを嬉しく思っていた。
外から薄暗い母屋を覗き込んで、土間にいた女将に声を掛けてから外へ出る。
「お女将さんお湯を頂きますね」
女将によるとこの辺りは山奥過ぎて、物騒な話はほとんどないらしい。強いて言うなら猪が出ることくらいか。もちろんそれも充分危険なのだが、明るいうちなら女一人で入っても大丈夫だと深雪にいう。女将は私も後から行きますよ、と深雪を安心させるように手を振った。
「あ、そうだ。女将さん、お米は後から持っていきますね」
利兵衛は宿代を兼ねて幾ばくかの金銭と米を持参した。湯治宿の場合は普通料理を出さないが、客の疎らなこの時期は多少の無理を聞いてくれる。それに、こんな山間では銭より米が喜ばれた。
宿の建つ高台から川縁との間にある脱衣所へ降りる。ここの温泉は大岩の傍に石を積み底にも石を敷き詰めて形造られ、その床から湯が湧き出してくるようになっていた。温度を適温にするため、上から少しずつ湯が落ちるよう幾つかの湯溜まりが作ってあり、下にいくほど広い湯溜りなっていた。そして泊り客は季節によって一番下の温いのに入るか、少し熱い目のその上に入るか選ぶことができた。
脱衣小屋に着いた深雪は懐から紙人形を取り出すと、ふっと息を吹きかけた。たちまち紙の人型に仮の命が宿って人の姿に甦る。もちろんこれは深雪の術ではなく、利兵衛の仕業だ。深雪の払う犠牲は大きいが、深雪は利兵衛に護られているのは事実だった。
かかり湯をし、さっと身体を洗ってから温泉に浸かる。気持ち温めだがいいお湯だ。こんなにいい温泉なのに湯治客がいないのは、これから農家も忙しい時期に向かうからだろう。湯治は近郊の人々の農閑期の娯楽だった。深雪は人形に入口側を見張らせ、思い切り手足を伸ばす。たまには利兵衛と居ても良いことはあるのだ。本当にたまに、だが。
「深雪様」と紙人形が囁いて入り口を指差した。先ほど声をかけた女将だろう。泊まり客以外の者がいては驚かせてしまう。深雪は大して気にもせず紙人形に物陰から見守るよう言うと、身体を斜めに向けた。
昆奈門の包帯を巻き終えた尊奈門がやっと一息ついたのをみるや昆奈門は労いの言葉をかけた。
「私は暫く涼んでいるから、お前も入って来なさい」
「有難いお言葉ですが、、私はいつでも領内の温泉に入れますから」
タソガレドキ領内には良質の温泉が湧き出ている。だが火傷にはこちらの温泉の方が効くので、昆奈門は定期的にここ迄療養に来ていたのだった。
「いいから行っておいで、これは命令だよ」
昆奈門は穏やかに目を細めた。命令とまで言われたら尊奈門も従う他はない。一礼して大人しく引き下がった。
尊奈門は湯気の向こう側の見覚えがある人影に焦っていた。恐ろしいことに忍びである自分が見逃す程ほとんど気配がなかったから、気づくのに遅れてしまったのだ。不覚だと反省するが今更慌ててももう遅い。というのも尊奈門は手桶を掴んで中途半端に湯を浴びた後だったからだ。仕方ない、背を向けて湯船に浸かればいいだろうと片足を湯の中に伸ばした所で、その人影がゆっくりと振り返った。
「…………」
気まずい空気が互いの間を行き来する。見てはいけないと思いながらも、尊奈門の目は深雪の裸身に釘付けとなった。と同時に己の上司に謀られたと、胸の奥から沸々怒りが溢れ出る。彼としてはそんなつもりじゃなかった。ただ少年の日の少し切なく不思議な思い出の一つに過ぎなかったのに。
背を向けていると不安に感じたのか深雪は身体を斜に向けて尊奈門の方を向いた。深雪は目を合わせずに口を開いた。
「……あれから元気に暮らしていたの?」
「はい、毎日忙しくしておりました」
そう、組頭の世話で忙しかったんですよ、貴女方のことを思い出す間もない位に、そう伝えるのは憚られた。だが一つ思い出せば次から次へと記憶が甦る。
少年だった当時も、尊奈門は今と変わりなく昆奈門の世話をしていた。ある日、お使いの帰りに足を滑らせて川の深みに落ちたことがある。その歳で道草すること自体あり得ないし、なぜ近寄るなといわれている場所にわざわざ近寄ってしまったのかも分からない。ただ操られたようにその薄暗い淵へ吸い寄せられていったことだけは覚えている。
何者かによって水に引き込まれ我に返った尊奈門だったが、足を掴まれていてはどうにもならず、もう駄目だと諦めかけた矢先に助けてくれたのが彼等だった。その上、預かりものも濡らしてしまい途方に暮れていたが、それもあの爺様が不思議な術で何とかしてくれたのだ。
着物が乾くまでのつもりだったが不思議なほど身体が動かず、そのまま三日三晩世話になり、四日目の朝に二人は尊奈門を村外れまで送り届けてくれたのだ。だがそこからどのようにして尊奈門が家まで辿り着いたのか全く記憶がない。
気がつくと見慣れた家の布団に寝かされており、家族の話では帰りが遅いと案じていたら翌朝家の前に倒れていたという。しかも数日の間こんこんと眠り続けていたらしい。だがそんなことになっていたとは尊奈門は微塵も思っていなかった。
数日後、その奇妙な話を昆奈門に尋ねられ事の次第を話した時だった。
「忘れなさい、それは夢だから。いつまでも関わらない方がいい」
「あれは……夢なんかじゃありません。私は確かに川に引き込まれ着物を破いたのですから」
そういって右袖のカギ裂きを繕った跡を昆奈門に見せた。確かに何かに引っ掻けたのか大きな鉤裂きがある。それに昆奈門も預かりものの包みに水草がこびりついていたと聞いている。
「ならば深く考えずに、助けられたこと、いま生きていることに感謝すればいい。夢か現かは問題じゃないんだよ」
昆奈門は包帯から覗く片目を柔和に細めた。
「この世には人智の及ばないことが確かに存在する。瀕死の大火傷を負った私がどうしてこのように生き長らえたのか?それもまた同じことだ」
まだ少年だった尊奈門はよく分からないとでもいいたげに、丸い目をさらに丸くした。
「もちろん骨身を惜しまないお前の看病は大きいし心から感謝しているよ。だがね、それを人が決めることなど出来ないのだ」
何かをいいかけた少年に向かって昆奈門は軽く片手を上げてそれを制すと、包帯を巻かれた人差し指を同じく包帯を巻かれた唇の辺りに当て何も言わないよう仕種で伝えた。
「勿論、人が他人の命を奪うことは可能だよ。だがね、私の言いたいことは……」
わかるかい?お前にはまだ少し難しいか、と昆奈門は微かに顔の肉を動かした。当時は昆奈門も顔を動かすのがまだまだ辛かったからだが、それでも傍目からは微笑んだようにみえた。