湯治場 2


深雪と利兵衛は日が沈むのを待ち兼ねて宵の内に出発した。夕刻から通じる彼等の道は人里を行くよりずっと道程を短縮できる。ほんの半刻も行かない内に目指す山あいの温泉に着いた。そこは谷間を川が流れ両側は険しい山に挟まれた宿兼民家が数件立ち並ぶ湯治場だった。宿は粗末なものの、泉質は折り紙つきで特に肌や怪我に良いとされていた。

夜中に着いた珍妙な客にも関わらず、宿の主人夫婦は快く利兵衛達を迎えてくれたので利兵衛は上機嫌だった。
「夜分遅くなって申し訳ありません。他のお客様にご迷惑でしょう」
「何の、今宵はもう一組のお客様だけですよ」
「どのような方ですか?」
「どうやらお侍様のようで」
これは面倒なと深雪は思ったが、それは胸の内だけに留めた。我々は早々に休みますと伝えると深雪と利兵衛は離れにある部屋へ案内された。

翌日、朝餉をいただき腹の物が少しこなれると、利兵衛は早速評判の温泉へと向かった。
さっさと脱いで深雪に装束を預けると、深雪がそれを畳み終わらないうちに先に中へ進んでいってしまう。
「利兵衛様、滑りやすいゆえ、くれぐれも足許にはお気をつけ下さい」
湯気の向こうから声をかける深雪には目もくれず、利兵衛は岩風呂に浸かる先客を観察していた。
 ───こりゃ面白い。
利兵衛は皺だらけの顔をさらにくしゃくしゃにすると、思い切り厭らしい笑みを浮かべた。もし深雪がそれを目にしていたなら、これから起こる事態を予測して頭を抱えたことだろう。
利兵衛の装束を畳み終えた深雪が入ってきた。袖が濡れないようたすき掛けをして、はしたないかもしれないが袴の裾もいつもより上に来るよう腰紐の辺りで身頃を少々たくし上げている。先客に気付いた深雪が甲斐甲斐しく自分の主人を世話する伴の男に会釈した時だった。

相手の青年は深雪を見て、その丸い目をこれでもかというほど見開いた。
「…………」
深雪は顔を覚えるのが苦手だった。第一、この時代の人間はすぐに歳をとり見た目も変わってしまう。だが目の前にいるのは割りと凛々しく可愛らしい青年で、見目も良いから深雪も忘れる筈がない。
「深雪さん」
名前まで呼ばれた深雪はどうしたものかと利兵衛を盗み見たが、例によってニタニタするだけで頼りにならない。
「…どちらでお会いしましたっけ?」
「私です。川辺りで倒れていたのを助けて頂いた…」
言われて何となくそんなこともあったかもしれないと思い出す。だがあれは目の前にいる男よりずっと子供だった。
「当たり前ですよ。今から五年は前のことですから」私だってまだ少年でしたし、と拳を握りしめながら男は主張する。名乗った覚えはないと深雪がいえばその青年は利兵衛に視線をやりながら、あの時お祖父様と話してらしたからと答えた。
「その節はお世話になりました。私は諸泉尊奈門と申します」
話し込んでいると湯槽に浸かる彼の主人がつまらなさそうに欠伸をしたので、「ではまた後ほど」と尊奈門は慌てて仕事へと戻った。

尊奈門に出会ったのは深雪がこの世界に来てまだ間もない頃だった。何があったのか深雪も利兵衛も尋ねはしなかったが文字通り彼は河原に落ちていて、そこを通りかかった深雪達が介抱してやったのだ。もちろん助けたのは利兵衛の気まぐれに過ぎない。当時の深雪はまだ右も左もよく分かっておらず、そんなことをして良いのかさえ判断がつかなかったから利兵衛の指示に従ったまでだった。だがそれには理由があった。
あの時尊奈門には秘密にしていたが、その河原に人間がたどり着くのはごく限られた場合であって、そこから人の住む里へ戻るのは極めて難しかった。だから尊奈門が快癒した後、深雪達は尊奈門を里の傍まで送ってやったのだ。

別れ際感謝の意を込めて何度もお辞儀をしていた彼は、ちょうど今の八左ヱ門位の歳だったろうか。まだその時は尊奈門も元服前で何某と名乗ったものの深雪は忘れてしまったが今とは別の呼び名だった。
聞けばもう十九になったというではないか。どうりで彼も凛々しい青年になった筈だ。当の尊奈門は温泉場の湯気に額の産毛を張り付かせながら懸命に主の世話をやいている。
まだ少年だった尊奈門の姿を今の彼に重ねながら、今ごろ学園にいる八左ヱ門達はどうしているだろうかと深雪はぼんやり考えていた。そんな深雪を岩風呂に浸かる爺様が厭な笑みを浮かべながら横から下から交互に覗き込んだ。
「八左ヱ……置いてきた連中が気になるか?」
答えるのも面倒で深雪は黙って首を横に振った。だが背中を向けている尊奈門の肩が微かに動いたことに気付いた深雪は努めて冷静に答えた。
「まだ子供ですよ。私が相手にするわけないでしょうが」
利兵衛はふふんと鼻を鳴らして愉快そうに伸びをする。そのままゆっくり立ち上がり尊奈門とその主人にお先にというと、深雪に支えられながら岩場の上に上がった。そして深雪が着せかけた湯帷子をまとうと、彼女を連れ鼻歌混じりで宿へと戻っていった。

未だ湯船に浸ったまま深雪が立ち去る姿をじっと眺めていた男、尊奈門の上役である雑渡昆奈門は興味深そうに呟いた。
「愉快だねぇ、実に愉快だよ、尊奈門」
岩場に控えていた尊奈門は顔を上げると訝しげに昆奈門を見た。
「まあ、上にいたお前からは見辛かったろうけどね」
昆奈門は湯槽の中に目をやった。何か落ちているのかと尊奈門は身を乗り出すが、少し濁った湯には湯の華が浮いているだけで何もない。そんな彼を見て昆奈門が目を細めた。
「私も生まれて初めて出くわしたよ。あんな手合いが見目良い女を連れているというのは本当だったんだねぇ」
尊奈門は丸い目をさらに丸くする。彼は昆奈門のいう意味が分からないようだった。
「丁度、湯の下にはねぇ。いや…そういえば尊奈門、あれはどうなったかな?」
昆奈門がお茶を濁したので尊奈門が振り返ると、深雪が忘れ物を取りに来たところだった。昆奈門はニッとわざとらしい笑みを作って深雪に手を振ると、深雪は頬を赤らめ照れながら会釈を返し宿へと戻っていった。耳を澄ませ彼女の気配が消えたのを注意深く確かめた後、尊奈門は口を開いた。
「組頭、実は私も…不思議に思っていたんです」
何だねと昆奈門が目だけ動かして尊奈門を見やれば、尊奈門は少し言い難そうに口ごもった。
「その……あの人、深雪さんは……」
昆奈門は辛抱強く次の言葉を待った。決心がついたように尊奈門が口を開いた。
「私が出会った時から少しも変わっていないんです」
昆奈門はごく僅かだがその目蓋を動かした。この年頃の娘というものは、少女から大人の女への変化が著しい。それは子供のいない昆奈門にもよくわかる。
「あの娘は見たところ十六、七ぐらいだろう?」
尊奈門は頷いた。
「私が助けられた時も……そう、私より少しだけ年嵩でした」
「つまり今と然程変わらなかったという訳だな」
尊奈門は黙って首を縦に振った。地熱で蒸された湿度の高い空気が辺りに充満しているにも関わらず、二人の男は何だか薄ら寒く感じた。

それでも意外なことに昆奈門は利兵衛に興味を持っていた。自らいうのも難だが事情を知らない者が湯槽に浸かる自分を見れば、悲鳴をあげなくとも大抵は驚いた顔をする。だがあの爺様は年の功なのか、ふんと鼻をすすっただけだった。あの娘も然り。男の裸なのであまり見ないようにしていたが、何一つ気にしていないふうだった。それに湯の下に見えたあれは…、昆奈門の口角が緩く引き上げられた。

「あまり浸かるとふやけてしまうねえ」
尊奈門は清潔な手拭いを差し出すと昆奈門は湯槽から上がって身体を乾かし始めた。

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