湯治場 1
深雪そして利兵衛も、くの玉との一件はうやむやの内に解決し再び学園での平穏な居候生活に戻った。とはいえ深雪はあれ以来小晴に気に入られたのかどうか分からないが、しばらく彼女に付きまとわれる日々が続き気持ちの上でも少々参っていた。
また小晴に想いを寄せていた少年達から嫉妬と羨望の眼差しを受けることになり、その生成りにも些か疲れていた。それも理由の一つだったかもしれない。気を利かせたのかある日突然、利兵衛がこんなことを言い出した。
「湯治に行く」
利兵衛は健康そのものであって、身体に関して温泉で治療が必要なほど悪い部分はどこにもない。むしろ治して欲しいのは性格の方だと深雪は常々思っているくらいだ。だが深雪もこのところ学園に居るのにうんざりしていたこともあって、温泉に出掛けるのも悪くない提案だと感じた。しかも言い出した張本人は既に思い立ったが吉日とばかりに支度を始めている。
「利兵衛様、一体いつお出掛けになるおつもりですか」
「ん、明日の宵には出立する」
いつものことだとはいえ、利兵衛は深雪の都合などお構いなしで出発するつもりでいる。
「あまりに急だ」と文句を言えば、
「これでも今日の宵に出るつもりを延ばした」と言い放った。
「お前も早く仕度をせんか」
行李を引っ掻き回す利兵衛に深雪はため息をついた。
「約束があるのに」
「忍たま共と市へ行くぐらい、いつでも行けるじゃろ」
「そりゃまぁそうですけど」と再びため息をつく。約束を反故にするのはこれで何度目だろうか。直接断りにいけば三郎はともかく、あの様子では八左ヱ門はさぞかしがっかりするだろう。我ながら狡いと思うが伝言は自分達が出発した後、紙人形に行かせることにしよう、と深雪はいそいそと支度をする利兵衛を横目に見つつ渋々自分も仕度を始めた。
翌日、深雪は生物委員会に預けている利兵衛と自分の馬の様子を馬屋へ見に行った。今はどの学年も授業中だから、朝一番に生物の世話をする八左ヱ門逹生物委員と顔を会わせる筈のない時間帯だ。
しかし、悪いことは出来ないもので、こんなときに限って運悪く出くわしてしまうのだ。背中を向ける青紫の装束、自由闊達に跳ね回る痛んだ髪の持ち主は深雪の知る限り間違いなく一人しかいない。彼は深雪の気配を察したのかゆっくりと彼女のいる方向へ振り返った。目が合った瞬間、疚しさを感じた深雪はこの場を逃げ出そうと本気で考えた。だが八左ヱ門の力強い眼差しに射竦められてどうしても足が動かない。
「深雪」と弾む声で名を呼ぶと、今朝の晴天に勝るとも劣らない程の笑顔を見せながら、八左ヱ門は小走りで深雪の元へ近寄ってきた。だがよくよく見れば八左ヱ門のその笑みがただ機嫌が良いだけのものではないと分かる。このギラギラとした空気を漂わせている八左ヱ門は確実に怒っているとみて間違いなかった。
「深雪。何か用か?」
「八…八左ヱ門こそ授業はどうしたの」
上擦った声で返事をする深雪に
「あぁ俺はいいんだ」と照れたように頭をぽりぽり掻きながらさらに深雪へと近寄った。
「急遽、下級生に虫獣遁の実習が決まったから準備でよ。生物委員は午前の座学が一部免除になったんだ」
そうだったの、とじりじり後退りする深雪が逃げようとしたのを察したか、八左ヱ門は逃すまいとすかさず深雪の手首を掴み取った。ニカと白い歯を見せて一見快活そうに笑う八左ヱ門に凄みが増す。というのも深雪が馬屋へ様子見に来るのは十中八九遠出を控えてのことだと八左ヱ門は知っていたからだった。
八左ヱ門は喉の奥から酷く不機嫌そうな声を絞り出した。
「またかよ。分かってんだぜ。深雪は毎回そうだよな。いつだって俺と出掛ける約束をしても反故にするだろ?」
一体何処へ行く気だよ、と八左ヱ門は深雪を見つめながら握り締めた手に力を入れる。思ったより強い力に痛みを感じながら深雪は放す気配のない八左ヱ門を見つめ返す。そして二人で出掛ける約束なんかしたっけと首をかしげつつ、八左ヱ門が深雪を掴んでいない方の腕に片手を添えた。指先を通じて青紫の装束の下から伝わる体温が一気に上がったのが感じられた。
「本当にごめんね。今回は私も皆と一緒に市を見物に行くの楽しみにしてたんだけど…」
「……爺さまかよ?」
深雪は複雑な顔つきになると頷いた。またかよと八左ヱ門は腹が立ったが、こうなると深雪を責めても仕方がない。あの爺さんは人の都合を盛大に邪魔するつもりじゃないかと疑いたくもなる。少なくとも面白がっているのは間違いなかった。
「悪かったな」
八左ヱ門は深雪を掴む手を緩めた。その時不意に悪戯心が湧き上がる。誰も見ていないのをいいことに、そのまま掌を上へずらし深雪の華奢な手に触れてみた。むろん前にも穴から引き上げるときに握ったことはあるが、その時は出してやることに気がいって感触などほとんど覚えていない。
改めて握ってみれば、あまり労働をしないのだろう。組手でつかむ級友たちの節くれだって固い掌とは違い、その手指はとても柔らかだった。だが捕まえられて焦った深雪は、力で敵わないのが分かっていても八左ヱ門の手を離そうとやっきになった。
「痛ぇっ!」
不意を突かれた八左ヱ門の目尻に涙が滲む。馬屋に繋いでいた筈の深雪の馬が気配を殺し知らぬ間に八左ヱ門の傍までやって来て、「いい加減にしろ」言わんばかりの勢いで八左ヱ門の少し傷んだ髪をむしり取ったのだ。慌てた深雪が「これ、止しなさい」と馬をたしなめているものの、その声音にさほど真剣味は感じられない。馬は意気揚々と八左ヱ門を見下ろすと鼻息と共に彼の髪を地面に吐き出した。
「ごめんね、八左ヱ門。後でよくいっておくから」
深雪は笑いを噛み殺しながら、それでも堪えられなかったのか口元を緩ませている。だがさすがに少々気の毒だと思ったのか少し背伸びをすると、髪をむしられた八左ヱ門の頭をそっと撫でてやった。
途端に深雪に撫でられた部分が熱を持ち、それが身体中に広がってほんのり八左ヱ門の頬が赤くなる。嬉しいけれどこんな幼子のように撫でられているところを誰かに見られでもしたら。恥ずかしさが手伝って八左ヱ門の額にじわりじわりと汗が吹き出す。このままじゃマズイと八左ヱ門が身を引こうとした矢先、まぐさを運ぶカサカサと乾いた音が耳に届いた。
「竹谷先ぱぃ…あっ」
裏からひょっこりやって来た手伝いの一年、一平がつぶらな瞳で八左ヱ門を凝視する。見てはいけないものを見たとばかりに孫次郎は慌ててそっぽを向くが気になって仕方がないのかチラリチラリと目だけが動く。後輩に見られて飛び退くかと思われた八左ヱ門は意外にも突っ立ったまま動かない。深雪はゆっくりと八左ヱ門を押し退けた。
「じゃあ、竹谷君。他の皆に伝えといてくれる?」
深雪の手が離れた途端、八左ヱ門の眉が残念そうに下がるから分かり易い。彼に釣られて深雪も苦笑すると一年生二人に振り返った。
「お土産買ってくるから皆で頂きましょうね」
深雪は一平と孫次郎に向かって話しかけると、二人とも喜んで深雪の袴にしがみついた。それを横から八左ヱ門が羨ましそうな様子で眺めている。
一年坊主は無邪気でいいよなぁ、俺もその輪に入って一緒に抱き着きてえよ。
そんなことを考える八左ヱ門の眉がだらしなく下がると何を察したのか、馬が八左ヱ門の首筋に荒い鼻息を吹きかけた。