出かけよう 1
午後の授業は座学のため八左ヱ門は眠気と闘いつつぼんやりと今朝のことを考えていた。早くから餌やりに出た八左ヱ門は、井戸端で衿元に血の付いた小袖を洗濯する深雪を見かけていた。何より自分は昨夜彼女が傷付いた瞬間を目にしているのだ。だが先程のあの傷一つないきれいな首筋は何だったのだろうか。
いやそれよりアレだ、深雪は首が白くて細かったよなあ、と思い出して妙な気分になる。やっぱ胸ねえし。そういや前に落とし穴に落ちてた深雪を引っ張り上げたとき勢いで転んだのを受け止めたことがあったけど、あの時も肉が付いてなかったっけな、などと思い出していれば自ずと八左ヱ門の頬も緩んでしまう。そんな心ここにあらずの八左ヱ門を見抜いた教師から前触れもなくいきなり手裏剣の如き勢いで指示棒が飛んできた。流石に上級生の八左ヱ門は一年生とは違い間一髪でそれを避けきったから、三郎は教師から分からないよう横目で目配せしてみせた。
方や三郎は学園長が口にした『贄』という言葉を考えていた。この意味が文字通りだとすれば、あまり酷な想像はしたくないが贄はアレしかない。そうでなくともあまり喜べない結末になりそうだった。もし小晴が利兵衛に付いて行くとすれば、いずれその贄になるらしい。だったら自称人間の深雪は一体どうなるのだろう。
そこまで考えると三郎は頭を切り替えた。深雪の行く末がどうなろうと私には関係ない、大切なのは今だ。次の休みこそ深雪が反故にした約束を果して貰おう、そう心に決めた。絶対あの女を茶屋に連れ出してやる。興味本意にせよ尋ねたいことは山ほどあった。
だがこれは八左ヱ門には秘密にするつもりだった。つもりだったのが。
「どうしてこうなるんだ。何でお前らも行くんだ」
三郎が憮然としながら雷蔵に尋ねた。勘右衛門は満面の笑みを浮かべながら、饅頭がいいか団子がいいか、それともぜんざいか汁粉、はたまたわらび餅やくず餅もいい、いやここは奮発して餡蜜かと、話を聞いていない兵助を前にあれこれ思い悩む。兵助は兵助であの豆腐屋の絹ごしは旨いから外せない、いやむしろこちらの寄せ豆腐の方がいいかと同じように思案していた。
「だって勘ちゃんが一番甘味屋さんに詳しいしね」
雷蔵が朗らかに答えた。八左ヱ門は期待に満ちた飼い犬のような目で勘右衛門を見上げている。あまり女の子の好きそうな店を知らない八左ヱ門には、その辺りに詳しい勘右衛門に後光が射しているように見えるのだろう。
「三郎の考えることなんて、お見通しなんだよ」
一瞬、ごく親しい者でないと気付かないほど僅かに雷蔵の優しげな微笑みに影が落ちる。
「第一、相手の同意がなけりゃ駄目でしょ?」
雷蔵は三郎にしか聞こえないように囁いた。その横で八左ヱ門が首を傾げている。三郎が深雪ときわどい約束をしたことも、この単細胞な級友は何も知らないようだった。
ふんと鼻を鳴らした三郎はつまらなさそうな彼とは対称的に、楽しそうに話す勘右衛門達に目を向けた。まぁいい、深雪は勘右衛門が苦手だから、彼が一緒に居ればその内ぼろが出るだろう。それに皆で行ったところで私との約束が立ち消えになるわけではない。
三郎はそう思い直すと企みは心の内だけに留めた。
探るような目付きの雷蔵がまるで信用ならないといった様子で三郎をちらりと見ては溜め息をついた。
「じゃあ俺知らせてくるなっ」
残りの四人が止める間もなく、善は急げと言わんばかりに八左ヱ門が部屋を飛び出していった。やれやれという空気が漂うなか雷蔵だけが遠ざかる背中を暖かく見守っていた。
「深雪、いるかっ?」
「…………」
ここまで急いで走ってきた八左ヱ門は己の前に広がる光景が俄かには信じられなかった。縁側に並ぶ目、目、目。困ったように助けを求める瞳と何しに来たのかと訝しげに見詰める眼と忍玉は帰れと言わんばかりの視線。その三組から一度に凝視された八左ヱ門はたじろいだ。