その傍らで 1
だが二つの影がまだその場に残っていた。小晴が呆然として生気がなくなって以降、ほっとした深雪がようやく気付いた自分を見守る視線。もっと以前からそこに潜んでいたに違いない。声を掛けるか掛けまいか、深雪は迷った。
「深雪様、あの女は無礼者ですよ」
抱き上げられた小柄な童子は深雪の首にしがみつくと耳元で囁いた。深雪に頬擦りする童子の白粉を塗った肌は益々青ざめ、切れ長の目は爛々と金色に輝く。もうじきその紅を差した可愛らしい口も耳まで裂けてしまうだろう。余計に話がこじれるから、今ここで彼に変化されるわけにはいかない。
「駄目よ。あの娘を喰ってはいけない。利兵衛様と私に約束したでしょう?」
深雪は聞こえないように小声で童子をたしなめた。深雪から漂う血の臭いに童子が舌舐めずりをする。深雪は諭すように童子の背中を撫で続けた。
「本気で殺すつもりなら、あんな近くにいる私を外す筈ないもの」
童子は深雪の瞳をじっと見つめて大人しく話を聞いている。突然、童子が首を傾げながら「深雪様、一寸だけ舐めていい?」と血糊の乾きかけた深雪の頬を指で撫でた。深雪は怖い顔をして首を左右に振った。出来るならこれ以上童子の姿を彼らへ見せずにやり過ごしたい。ひうと一息空気を吸うと深雪は声を張り上げた。
「見守ってくれて、ありがとう。貴方たちも早く行きなさい」
しかし、そこから動けないとでもいうように、二つの影は身じろぎ一つしない。つい先ほどまで繰り広げられていた光景をそれぞれが思い思いに反芻していた。話は半刻程さかのぼる。
後を着いて来る八左ヱ門は気配を全く隠す気がないようで、それを察した三郎は自分で自分を罵りたくなった。こうなることを見越していたなら深雪が小晴と待ち合わせる場所へ直行せず、八左ヱ門を撒いてから向かえばよかったのだ。三郎は仕方なく立ち止まると八左ヱ門が追い付くのを待った。
「ハチ、一体どういうつもりだ」
無表情で訊ねる三郎に八左ヱ門はニッと笑って強引に肩を組むと三郎を引き寄せた。
「彼女の所へ行くにしたら完璧に気配を消しすぎだって。付いてきてくれ、つってるようなもんだろ?」
どうしたんだよ、とニヤニヤしながら八左ヱ門は三郎を覗きこんだ。どうせまた誰かに悪戯でも仕掛けに行くのだろう、八左ヱ門はそう考えたようだった。仕方がない、三郎は少し思案すると肩に回された八左ヱ門の腕を振りほどいて重々しい声を出した。
「いいか、ハチ。約束しろ」
八左ヱ門は三郎の真剣さに押されてごくりと唾を飲み込んだ。
「何を見ても声を出すなよ。何があっても、だ」
「……了解」
「見たものを絶体口外するな」
「了解……って、一体何なんだよ」
「それにハチ。お前すぐ熱くなるからな。いきなり飛び出すなよ」
八左ヱ門は三郎の申し渡しに面食らって目を白黒させながら同意した。
「それからな、完璧に気配を消せ。相手は五年のくノ玉だからな」
くノ玉と聞いてお遊び気分だった八左ヱ門は一気に目が覚め、引き締まった表情に変わった。三郎がちらと八左ヱ門を横目で見た。
「私だって余計なことをしているのは解っている。でも本当に危険だとなれば、何と言われようが出ていかなければ」
八左ヱ門は誰がとは聞けず黙って三郎に頷いた。だが自分の想像が間違っていなければ、今から危険な目に会うのは…。八左ヱ門は自分の想像が外れてくれることを心から願った。
「後から付いてこい」とだけ言うと三郎は音もなく走り出し、八左ヱ門もその後を追った。