呼び出されて 4
「貴女、あの翁に買われてきたの?」
「そう見える?」
一見羨ましいような境遇にいる深雪だが実のところどうなのか。言えない事情を抱えているのかもしれない、そう考えると小晴にも気持ちの余裕が出てきて再び優越感が頭をもたげる。
「買われて来たんじゃないんでしょう?だったら願い出てみればいいのに」
「私の力ではどう足掻いても無理なの。遠すぎて帰りたくても帰れない」
「あんた、ひ弱だものねぇ」
「それもあるけど…」
深雪は一呼吸置いた。既に闘争心はないのか木の幹に身体を預け深雪を見ている小晴は、いつか見た何処かの寺の秘仏のように絵になる立ち姿だった。
「私の生まれ故郷はね。たぶん、こことは地続きだけど……この世と決して交わることのない場所なの」
『この世と決して交わることのない場所』と目の前の女がいうのは、どこの邦のことだろうか。一体何の話をしているやら、深雪はごく普通のことを喋るような口ぶりで呟いたものだから、小晴は初め深雪の話す内容が夢物語のように聞こえた。小晴の脳裏にぐるぐると『この世と決して交わることのない場所』、その言葉が巡るばかりで理解できない。
だが次第にその話が小晴の中で腑に落ちるにつけ、深雪に向ける瞳が恐怖の色を帯び始める。
『この世と決して交わることがない場所』ということは、つまり『この世にある何処かではない場所』ということ。小晴の腋を冷たい汗が転がり落ちた。
深雪は痩せ細った月が照らす頼りない明かりの中、小晴の強張った表情をようやく捕らえることができた。この様子だと小晴に誤解を与えたのは明らかだった。だが深雪は他に巧く伝える術を知らない。この時代の人間に、明日の明日のずっと先の明日の世界から来たと説明したところで誰も信じてはくれないだろう。むしろ少し頭の回る者なら、深雪が先の世のことを知っていると推察するだろうから余計に面倒なことになりかねなかった。だったらあの世の者だと思われている方がよほど安全だ。ただし少々恐れられる分にはともかく過大に恐れられても命の危険が出てくる。そこで深雪は小晴に向かってできるだけ優しげな声で話しかけた。
「でもね、小晴さんも見たでしょ?傷が付けば赤い血が流れる。私も貴女と同じで『人間』なんだから。分かったら今後は妙なことはしないと約束して」
「約束なんか出来ないし、しない」
力の抜けた小晴は怯えた様子でそう答えた。
「ねえ」と深雪が小晴の瞳をじっと覗き込んだ。そんなに近い距離に居る訳ではないのに有無を言わせぬ鋭さが光る。微笑む深雪は妙に妖しく、月明かりに照らされた白の上衣がぼんやりと闇に浮かび上がった。
夜の闇など一度も怖いと思ったことなどないのに。だがその現実味のない、言ってしまえばこの世の者ではないかのような雰囲気に小晴は例えようのない恐れを感じた。
「何?」
「小晴さんは家からも何からも束縛されない、自由に見える私が羨ましかったんでしょ?」
己の本心を言い当てられた小晴は、身包み剥がされて放り出されたような心細い気持ちになった。が、深雪の次の言葉に小晴は己の耳を疑った。
「だったら……私と一緒に来る?」
小晴は目を見開いたまま口をぽかんと開けている。何を言われたのか小晴が理解できなかったのかと、深雪はもう一度同じ台詞を繰り返した。
「小晴さんさえ良ければだけど、この次に私たちが学園を去る日一緒に来ればいい。利兵衛様は見目の良い貴女を気に入るだろうし、貴女のご家族も利兵衛様の申し出を決して拒むことはできないから」
小晴は黙ったままだった。迷っているでも拒否しているでもなく、どこにも焦点の合わない瞳で深雪を見つめていた。
「返事はいつでもいい。その日まで待っている」
深雪が口を閉じたのを最期に二人とも何も言わなくなった。
月が移動して地面に落ちる淡い影の長さが長くなる。小晴はやっと落ち着いたのか背筋を正すと、来た時と同じように凛とした雰囲気に戻った。
「考えておく…」
そういうと微かに笑った。深雪もごく僅かに笑みを返す。
だがそのすぐ後に小晴は急に落ち着きをなくすと、その視線はちらちら深雪ともう少し下の方とを往復し始めた。大きく見開かれた瞳が小晴の恐怖心を物語っていた。それに気付いた深雪は素振りには出さないものの、これは拙いことになったと大いに慌てた。
「小晴さん、帰りなさい」
まず童子を落ち着かせなければ。深雪は童子の手を引きその面が小晴から見えないよう背中を向かせて素早く抱き上げた。童子は嬉しそうに子供らしい仕草で深雪にしがみつく。
「早く」
低い声で深雪が言うと我に返った小晴は瞬く間にどこかへ姿を消した。気配はどんどん遠ざかり、忍者らしく辺りに潜んで様子を窺うこともしなかった。