呼び出されて 3
流血展開、ご注意
一呼吸すると小晴の方から口を開いた。
「ねぇ…深雪さん。羨ましいって分かる?」
「それだけじゃ…あなたは男子から人気もあって成績も優秀だし、自分に何の不満があるの?」
だから男は関係ないと小晴は少し苛立って眉間を寄せる。苛立っているということは本当に男絡みのいざこざではないのだろう。深雪は頬を伝い落ちる血を手で拭った。小晴はちらりとそれを見ると、俯き加減で深い溜め息を一つついた。
「貴女はね。私にないもの、欲しくても持てないもの、それを持っているのよ」
小晴はきっぱりと言い切ったが、先程刃物を投げてきた時のように馬鹿にした気配や高飛車な色は声音に含まれていない。むしろ余りにも穏やかに告白するものだから、逆に深雪の方が驚いてしまった。
「何か分かった?」
「いや、全然分からないんだけど…」と言い終わらぬうちに、ある言葉が深雪の脳裏に浮かんだ。どくり胸を打つ。深雪にあって小晴にはないもの、欲しくても小晴にはおそらく手に入らないもの、それは。
『自由の身』
途端にこの世界の、小晴への、そしてくノ玉達への見方が変わる。
「確かに、貴女方から見れば私は小綺麗に暮らしてるしね」
小晴はくノ一志望だと三郎から聞いたから、忍びの家系出身なのかもしれない。
『好きなときに好きな場所に行って好きなだけそこで暮らす』
深雪は好きでもない男と寝る必要はない。人が死ぬところはこの世界に来て見る羽目になったが、これから先も深雪が誰かを殺すことはないだろう。その必要があれば代わりの物が傍にいるから自らの手を汚すことはない。
だが同情する気にはなれなかったし、逆にそれは小晴に対して失礼な気がした。この乱世で皆、自分の役割を懸命に演じているに過ぎない。それは深雪も小晴も同じことだ。もっともこの時代の人間は深雪の生きてきた世界と違って、極端に選択の幅が狭いか無いに等しい。その違いだった。
小晴はようやく理解したらしい深雪へ満足げに薄く笑むと、その視線を深雪の前に立つ童子に移した。先ほどから能面のように眉一つ動かさず、ずっと同じ表情で小晴を睨んでいる童子が心底薄気味悪く感じられる。だがそんなことには気付いてないのか深雪はいつもと変わらぬ様子で小晴に尋ねてきた。
「ねえ、あなた…小晴さんに家族はいるの?休みは里には帰るの?」
「答える必要ないでしょう?」
小晴が否定も肯定もしないのは深雪に言う必要がないと思っていただけで、小晴自身は忍術学園に入学して以来、便りを欠かすことがなかった。
じっと小晴を見つめていた深雪は、
「そう…ご両親もお里も健在みたいね」と世間話でもするように小晴にいった。
小晴はぞくりとして僅かに目を見開いた。小晴が便りのことを思い出した瞬間、彼女からほんの少し零れ出た柔らかい感情を深雪は逃さず読み取ったのだ。深雪は思っていたより勘のいい女なのかもしれないと小晴は己の考えを直した。
「私は、あなたが羨ましい…」
深雪が懐から手拭いを出してべたつく首筋を拭くと、乾きかけた血のりで皮膚が引きつれ開いた傷にちりっと痛みが走った。痛そうに眉を寄せた深雪に小晴はふんと鼻を鳴らした。
「この世界にはね。私の過去を知る人は誰もいないのよ」
妙なことを言う女だと小晴は深雪をじっと見つめた。
「やだ、貴女ずっとお祖父様と一緒でしょうに?」
随分、感傷的だ、と小晴が嘲笑った。だが深雪は困った顔をすると首を左右に振った。あまり関わりのない家族だったのかもしれないが、連れ歩くほど可愛がる孫をよく知らない祖父というのを小晴は奇異に感じた。深雪は溜め息を一つ吐くと口を開いた。
「私はね、ある日、利兵衛様にここへ連れてこられたの。だからたぶん、向こうでは神隠しにでもあったと思われてるんでしょうね」
「でも…見たところ奴婢ではないし束縛されてもいない。大事にされてるでしょう?」
そう言いながら小晴は深雪をつぶさに観察した。急に冷ややかな瞳になった深雪は小晴をじっと見つめ返した。
「小晴さんにはそう見えるでしょうね」
深雪の家族は彼女に黙ってあの老人に深雪を売ったのだろうか。それにしては利兵衛と深雪のやり取りは、口のきき方といい振る舞いといい主従関係のそれではなく、それこそ家族のような間柄にみえた。だが時折、深雪は『お祖父様』ではなく『利兵衛様』と他人行儀で呼ぶのだから、それが小晴には不思議だった。