面倒な約束 1
翌日から深雪はごく普通の紺色の袴姿になった。吉野先生から職員用の袴だけを借りたのだ。普通というのはいわゆるくノ玉が男装して出掛けるときのような服装のことで、合わせて髪も下ろしているのは変だといわれ、高く結い上げることにした。しばらく特に出かける用事もないから、深雪を見かけた生徒たちから余計な想像をされることもないと深雪は安心していた。
駄目にされた常の装束の白衣と緋袴は、近いうちに利兵衛が調達してきてくれるらしい。だが彼は特に怒ってもいないようで、小晴からの嫌がらせについてもニヤニヤとしただけだった。どうやら女同士の揉め事をかなり楽しんでいるように見える。おそらく小晴が見目良い娘だからだろう。
それでも「安心せい。お前さんの身に危害を加えようとするなら、其奴の首など即刻刎ねてやるわ」と物騒なことを言うものだから深雪はもう一つ悩みを抱えることになった。なぜなら、いくら相手がくノ玉の小娘だからといっても、一たびそう言い切った利兵衛に二言はなかったからだった。
「落ち込んでんじゃないかと思って三郎様が様子を見に来てやったぞ」
午後になって三郎が現れた。深雪は昨日の今日で顔を会わせるのも気恥ずかしかったが、三郎は何事もなかったように振る舞ったため深雪は心の中で安堵の溜め息をついた。
「悪くないな」
深雪の袴姿を見た三郎は意外に似合うと口笛を吹いた。
「何が?」
「その格好さ。いつも代わりばえしないだろう?」
「確かにね」
「あの後帰り際に気付いたんだが、深雪なら爺さん仕込の術でくノ玉一人くらい何とかできるんじゃないのか」
もちろん深雪だって伊達に利兵衛の傍に付いている訳じゃない。自分に出来る術は折を見て教え込まれている。だが……
「『人を呪わば穴二つ』っていうでしょ?結局自分に帰ってくるの」
「でも命を取られたら意味がないだろう。違うか?」
三郎が深雪を覗き込んだ。いつになく真剣な眼差しに言葉を失う。借り物の顔だと聞いているがそれでも元々端正な骨格なんだろう。実際は三郎でなく雷蔵が端正なのかもしれないが、雷蔵はどうしても優しげな雰囲気の方が強く出ている。もっとも雷蔵は腹で何を考えているのか分からない部分があるが。
「まあ、それだけ元気ならいいさ」
「…ねえ、三郎。誰にも言ってない、よね?」
「そんな野暮なこと私がすると思うか?」
チラと視線を送られて深雪は息を飲んだ。
「もっともそんな格好してりゃ嫌でも知れるだろうけどな」
「大丈夫。今までだって洗濯する日は普通の袴だったから」
そうかと案外あっさりと三郎は納得した。
「そういや明日一緒に町に行く約束だったな?」
そんな約束はしていない、と深雪は怪訝な顔をした。三郎は何かを企んでいるときのように口角を引き上げた。
「おや、お忘れですか?」
やっぱりあの時の三郎は本気だったのだろうか。深雪は三郎の真意を測りかねた。三郎は有無を言わせぬ雰囲気のまま片頬だけでニッと笑みを作った。
「……じゃ、この格好だけどいい?私は町屋の娘さんみたいな小袖を持ってないから」
それを耳にした三郎は言葉に詰まった。見た目はともかく適齢期を過ぎた娘が一張羅はおろか普段着の小袖一枚持ってないとは。あの爺さん、なに考えてんだか。三郎は深雪の暮らしを垣間見た気がした。
三郎はまだ五年だが非公式に何かと仕事の依頼が来る分、他の生徒より懐具合がいい。古着でいいなら私が買ってやると喉まで出かかったが、それは喉元で押し留めた。というのは特に深雪が気にした様子でもなかったからだ。
この調子じゃ男はいないだろう。そんな三郎を見透かすように深雪がちらりと三郎を見る。
「ありがとう。全く持ってない訳じゃないけどただ…」
あるにはあるが普段着に使えないのだ、といった。だが、どちらの意味で使えないのか三郎には分からない。
「ごめんね」深雪が困ったように笑うと三郎は顔を逸らしてしまった。面皮の内側がじわりと汗をかく。耳が、もしかしたら首も赤いかもしれないと三郎は思った。
「じゃ、明日の朝食後、正門を出た先にある杉の木ところでな」
勝手に決めて去っていく三郎の姿を深雪は唖然として見送った。後ろで利兵衛が玩具を手にした子供のように愉しげに、だがとことん厭な笑いを浮かべている。
「お爺様。話がこじれる元だから付いて来ないでね」
「ほほぅ、脈ありかな?」
「町へ行くだけですから」
「逢い引きといわれてたんじゃろ?」
「やっぱり昨日聞いてたんじゃない。助けてくれたっていいでしょ!」
利兵衛は煙管をくゆらせながら深雪の訴えなど堂々と無視すると、ほうっと煙を吐き出した。