月曜日、なんだか変にミスを連発する日だった。仕事のね。嫌なことも多くて、定時で上がれるはずだったのが遅くなったので、慌てて久々知くんにメールをいれておいたのだけど。
「杏里さん、こっち」
なんか、最寄駅にいました。
「ちょっ、火とめてきた!?窓は!?締めてきた!?」
「初めてのお使いじゃないんですよ。おかえりなさい」
なんか、迎えに来てた。しかも若干怒ってる。
「今日遅くなるって言うから、迎えに来ました」
「あ、ありがとう。ただいま」
たった1時間の残業なのに。
そういえば、金曜日にそんな話もした気がする。迎えに行きますから、みたいなこと言われたわ。
完全に忘れてた。
2人で家に向けて歩きながら、久々知くんが聞いてくる。
「今日は定時で上がれそうだって言ってませんでした?暇だからって」
「あー、うん、そうなんだけどね」
上司のセクハラでね。同期がだいぶ引き取ってくれたけど、それでも1時間オーバー。
「それがねぇ、ちょっといろいろあってさ」
ため息をつく。
と、左手にひんやりとしたものが触れた。
「久々知くん?あーっと、兵助くん?」
手を、握られた。
「あとでお酒でも飲みましょうか」
「ビーフシチューのあとで?いいけど」
「嫌なことが、あったんですよね」
えっ。
「話してくれますよね」
て、手強い。
「セクハラ?それって犯罪ですよね?」
「いや、セクハラというか、セクハラっぽいというか」
久々知くんがグッと眉間を険しくする。
注いでもらった缶チューハイをぐいっと煽る。
「別にね、お尻触られたりとかはしてないから。脚しか触られてないし」
「脚を触らせたんですか!?」
「飲み会でだよ!!」
きっとあのとき部長は酔ってただけだ。多分。
「十分犯罪じゃないか」
「いやそんな不愉快なことではないんだけど……いつも同期とか先輩が助けてくれるし、今日もね。俺と飲みに行くかこの仕事やるかだーみたいなこと言われてさ」
「パワハラじゃないか」
「おぉ、よくお勉強してるね」
思わず感激の声をもらしてしまう。こちらへ来てから1週間とちょっと。カタカナ語まで覚えちゃいましたよ!さすが優秀な忍たま!
「それで、残業を」
「そ。ビーフシチューだから帰りたいです!って言いたかった」
言えないけどね、そんなこと!
「まぁでもはっちーが助けてくれてよかったよーいっつも助けてくれる同期なんだけどさ」
なんだろう、今日はいやに酔いがまわるのが早い。なんだかふわふわとする。
ビーフシチューを食べ終えた食器を久々知くんが片付けるのをぼんやり眺めながら、私の口はぺらぺらとよくまわった。
「上司がセクハラで押し付けてきた仕事さー、弓束のだろって言われたんだけど私じゃないわけ。つーか新規なわけ」
「弓束……あぁ、そうか、弓束、杏里さん」
「そーそー。んで、意味わかんねぇ!とか思いながらまぁでも、飲みになんて行ったら未来は見えてるじゃん」
「行かないでくださいね」
「うん」
空のコップ片手に戻ってきた久々知くんは、何故か私の隣に座った。
「そしたらさー、はっちーがさー、それ私のミスですね、とかって持ってってくれたわけ」
「はっちー?は杏里さんと同い年?」
「多分ね、同期だし」
さらにお酒をあおる。久々知くんが自分のコップにお酒をつぎながら、ちらりと横目に私を見た。
「なんかね、はっちーと久々知くん、ちょっと似てる」
「……へぇ?」
「今の、目つき」
思ったことをそのまま口に出してしまう。まだ一本も飲みきってないのに、変に酔ってる感じがするな。
職場の愚痴は山ほどある。仕事は楽しいのだけれど、セクハラ上司も含めて人間関係がちょっと大変だから。
それを同期のはっちー以外に話すのは初めてかもしれない。
久々知くんは相槌を打って聞いてくれるから、するすると愚痴ってしまう。
「ごめん、ちょっとトイレ」
「はい、行ってらっしゃい」
私は立ち上がろうと床に手をついたまま、思わず久々知くんの顔を見た。変な体勢なので、顔が近い。
「いいね、今の」
「は?」
「あとやっぱり、久々知くんは美人だ」
立ち上がってトイレへ向かう。
うーん、行ってらっしゃい、の言い方が良かった。ノリのいい妻みたいで。
そうか、私今久々知くん養ってるし、家事全般任せてるし、妻みたいなものか。顔も綺麗だし、ただ年齢差がなぁ。
そんなことを考えつつお手洗いを済ませてドアを開けたら、そこに久々知くんが立っていて、変な声がでた。
「え、な、なに」
「杏里さん、ちょっと」
久々知くんの手が、私の額に伸びる。ひんやりとした硬い皮膚、優しい手。
「うん、やっぱり」
「なに」
「熱、でてますよ」
「ねつ」
そうか、熱か。…………熱!?
「えっ嘘そんなことないよ、明日も仕事だし」
「明日も仕事は関係ないです」
久々知くんに引っ張られて、ベッドに放り込まれる。
「いやいやいや」
「救急箱、テレビ台の下ですよね」
「いやいやいやいや」
そこからは早かった。
すでに部屋着に着替えていたのだけど、胸元を剥ぐ勢いで脇に体温計を突っ込まれた。こわい。それから洗面所へ行った久々知くんは、どこから私の旅行用ポーチを見つけ出したのか、シートタイプのメイク落としを手に戻ってきた。
「えーっと、普通にクレンジングと洗顔したいんですが」
「明日になったらな」
珍しく敬語の外れている久々知くんに、目をぱちくりとさせる。
ピピピッという軽い音が聞こえて、お?と思っていたら久々知くんに体温計を引き抜かれた。だから、行動早いんだってば。
「ほら」
謎のドヤ顔とともに見せられた数字は、38.5℃。
なかなかの数字だ……平熱が低めなだけに、これは、すごい。あと、久々知くんのドヤ顔も、すごい。
「薬は何がいいですか?」
「何があったっけ……」
数字を見たら急にだるくなってきて、ベッドにくたりと沈み込む。なんでこんな熱でてるんだ。
自覚したくなかった。
「内服だと……喉の薬と、咳止め、半分は俺でできてるやつ」
掲げられた白い箱は、バファリンだ。解熱効果でいったら、それがベストアンサーかな。
「……うん、じゃあ、久々知くんのむ」
「冗談だったのに」
半分は優しさで出来てる、なんて、久々知くんテレビの見すぎだよ。
久々知くんは少し笑って、お水とってきますね、なんてキッチンへ向かった。
起き上がるのを助けられて、口にバファリンをねじ込まれる。
久々知くんはわざわざ空きペットボトルに水をいれてきてくれた。口を当てられて、水を流し込まれて、飲み込む。
「のめました?」
「ん」
「じゃあ、俺が洗い物してる間に、メイク、落とせますね」
「……うん……」
なんでこんな小さい子みたいな扱いされてるんだろう。気遣いは嬉しいけど。
使ったメイク落としシートをゴミ箱に捨てるために、のそのそとベッドから這い出る。彼は私の飲み残しのお酒を飲んでいるところだった。
「杏里さん、梅干とはちみつ、あります?」
「梅干は、冷蔵庫になかったら、ない」
「あ、そっか」
久々知くんはたまに抜けている。そっかー、久々知くんの方じゃ梅干は常温保存だったのか。
「困ったな、もし夜のうちに熱が下がるとしたら、塩分が」
久々知くんはぶつくさ言いながら空のコップ2つと空き缶を手にキッチンへ。
「ポカリほしい……」
「あ!そうかスポーツドリンク!」
ぼんやり呟いたのが、久々知くんには聞こえたらしい。
え、梅干とはちみつって、経口補水液つくろうとしてたの?あれ酸っぱいじゃん、絶対ポカリがいい。
「買ってきますね」
キッチンから寝室へ顔を出してそう言ってくれたので、ありがたく頷く。
と、久々知くんが曖昧な表情で、顔だけでなく姿を見せた。
「……杏里さんが寝てから行きますね」
「え」
「だから、そんな顔しないで」
私、どんな顔してたんだろう。