▽ どうにでもなれ
仕事で目をやられた。
そう難しくはない忍務だった。ただ、しつこい追手を撒かずに里に戻るわけにはいかず、逃げている途中で薬をくらった。
敵を撒いて、少しずつ霞んでいく視界に焦りつつ、なんとか里にたどり着いたその夜には、目は見えなくなっていた。
鉢屋の里は実力主義だ。そして、働かない者を養う余裕もない。
もう里にはいられないだろう。今どこで何をしているか知れない、大事な幼なじみとの婚約も破棄だ。
私の許嫁は、里のお頭の三男坊だった。私よりいくらか歳上で、神経質な優しい子供だった。
彼は幼い頃に私がやらかしたミスをその優しさから庇い、里の怒りを受け、どこぞへ修行に出されてしまったのだ。三男坊だから三郎、なんて、雑な名前を与えられて。
きっと帰ってこないだろうけれど、彼を待ちたいと、そう思い続けて、ずっと頑張ってきたのに。
「私がこんな身になって、あなたは嬉しいでしょう」
里の皆の予想に反して、三郎は呼び戻されることになった。彼の兄が2人とも死んだのだ。
三郎は、ずいぶんと男前な嫁を連れて、戻ってきた。
間がいいのか悪いのか、私が目をやられたその日の夜に、彼らは里へやってきた。
ついに私は、成長した三郎の顔を見ることもかなわなかった。
「どうしてそんな冷たいことを言うのかなぁ」
柔らかい声は、静かな部屋に染み込んでいく。あぁ、嫌だ、嫌だ。
私は雷蔵さんのことが、嫌いなわけではなかった。ただ、私も雷蔵さんも、あまりにも恋をしていた。
「……三郎はまだ、君を娶ると言っているよ」
「そんなの、」
あなたの口から聞きたくはない。
私は1度口を噤んでから、ひらいた。
「お頭が許しはしませんよ。彼はもう若頭ですから」
「そうなんだよね。僕は忍術学園で長いこと三郎と一緒にいたのに、全然知らなかった」
雷蔵さんの声は柔らかい。ふわふわと優しく響く。しかしその声は、実に冷たい。
「雷蔵さん」
彼がいるであろう方向に頭を向ける。焦点の合わない目が恥ずかしいから、自分の目元には布を巻いていた。
「好きなんでしょう、三郎のこと」
「うん」
あっさりした答えだった。それが当然なのだ。
悔しくなる。雷蔵さんは、自分の恋をすっかり肯定して、あるがままに受け入れ、表現できるのだ。
身を乗り出すと、慌てたように動く気配がした。
「なまえちゃん危ない、そこ、お茶が」
「どうしてですか」
カチャカチャと鳴る音は、おそらく、湯のみを避けてくれたのだろう。
見えない世界に腕を伸ばすと、支えてくれる腕があった。掴まれた肘を支点に、拳を叩きつける。
「どうして私じゃないんですか!」
何故私じゃないんだ。どうして。どうして。
身体が弱くて、神経質で、自分にも他人にも厳しく、形式ばかりの許嫁に優しい約束をくれた。そこに確かに恋があった。誰がなんと言おうとあれは恋だったのだ。
私が何年待ったと思っている。小さい子供の幼稚な約束を胸に、生きたとも死んだとも知れないあの人を、ずっと待ち続けて。
ただ待っただけではない。私は鉢屋の里の忍者の子だ。その里を束ねる一族に嫁に行くのだ。ただ家で料理をして待つだけの女になるつもりは毛頭なかった。
毎日必ず稽古をした。どんな忍務も引き受けた。私は女だからくのいちだけれど、戦忍でもあった。怪我だって多い。
あんな馬鹿を待つのはおよしよ、と助言を受けたこともある。あんたもいい歳だ、嫁いだ方がいい。こんな仕事をさせられてたんじゃ、あんたもそのうち参っちまうよと、私を案じる優しい言葉ではあった。
それでも私は待ったのだ。忍者として成長しているであろうあの人を、自分も成長しながら待ったのだ。
なのに、どうして。
「どうして三郎は、あなたを選ぶんですか!」
どうして、彼は仕事のパートナーに、雷蔵さんを選んだのだろう。
悔しくてならなかった。私はただ、三郎に愛されたいだけではないのだ。
三郎のことが好きだ。幼い頃から、物心ついたときから、ずっとずっと三郎だけが好きだった。
三郎は、私の世界であり、夢だ。三郎の隣で、強い女であることが、私の人生の目標だったはずなのだ。
里の誰もが彼を見捨てたとしても、私は待っていた。それが約束だからだ。そう、約束だから、果たして三郎は帰ってきた。
「どうして雷蔵さんは、三郎の隣にいられるんですか……」
私が視力を失わなければ、あるいは、私が男であれば、三郎の隣にまだいられたのだろうか。しかしそれでも、三郎が雷蔵さんを連れて戻ることは変わらない。考えても仕方のないことだ。
考えても、思っても、願っても、仕方のないことだ。なのに、
「私はこれから、どうすれば……!」
雷蔵さんの胸元を殴る手に、もう力は入らなかった。世界なんて、もう見えない。
黙って殴られていた雷蔵さんが、私の腕を離す。俯いていたら、優しく抱きしめられた。
「大丈夫だよ、なまえちゃんはまだ、ここにいる」
雷蔵さんの声が柔らかく響く。
「三郎と、僕と、なまえちゃんはずっと一緒だよ」
言葉の意味が、最初はわからなかった。
わからないけれど、穏やかな音に安心して、身体の力が抜けていく。
あぁ、もう、どうにもならない。